三国志の「正史」の著者は陳寿(ちんじゅ)です。
陳寿は蜀漢に仕えていましたが、讒言により左遷されて、
蜀漢を追われ、その後は晋に仕えて史書を編纂しています。
よって魏を正統としており、さらに晋に繋がる流れになっています。
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正史・呉書は誰が執筆したのか
公平な視点で三国志は執筆されているとは云われているものの、
やはり魏や蜀の内容に精通しているために呉に対する内容はやや薄くなっているようです。
陳寿の思い入れの違いなのかもしれません。
ちなみにより内容に迫力と面白さを演出するために、
南北朝時代に裴松之が注をつけて現代に伝わっています。
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単独伝とはなにか
「魏書」「蜀書」「呉書」にはそれぞれ功績のあった人物の伝がたてられていますが、
似たような時期に活躍した人物たちをひとまとめにしています。
賈詡(かく)とともにまとめられています。
蜀の関羽(かんう)は他の五虎将とひとまとめです。
そんななかで君主を務めた曹操(そうそう)や劉備(りゅうび)、
孫権(そんけん)などは単独で伝を設けられています。
これを単独伝とも呼びます。
臣の身分で単独伝があるのは蜀の諸葛亮孔明(しょかつりょうこうめい)と
呉の陸遜(りくそん)だけと伝わっています。
これは曹操や劉備などの英雄に引けを取らない活躍をした証です。
陸遜の単独伝
しかし実際の陸遜の単独伝は、実は諸葛亮孔明とは違い、
息子の陸抗(りくこう)と分け合った内容になっています。
題名は陸遜伝なのですが、厳密にいうと単独伝ではありませんね。
しかし、執筆者の陳寿としてはもともと仕えていた
蜀漢の建国者・劉備を負かした当時無名に近かった
陸遜の活躍ぶりをリスペクトしていたようにも思えます。
陳寿評して曰く「劉備は天下に雄を称えられ、一世の憚るところ、
陸遜は春秋まさに壮にして、威名いまだ著われざるも、嶊きてこれに克ち、志のごとくならざるはなし。
予、すでに遜の謀略を奇とし、また権の才を識るところ、大事を済すゆえんなりと嘆ず。
遜の忠誠懇ろに至り、国を憂えて身を亡ぼすに及びては、社稷の臣に庶幾からん」
まさに陸遜と孫権のタッグは最強と呼ぶにふさわしく、
忠義の臣たる陸遜の活躍は素晴らしいと絶賛しているのです。
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陸遜伝は地味なのか
蜀の関羽を討つシーンでは、巧みな知略を駆使していますし、
蜀の劉備を敗退させるシーンでは、無名ながら総指揮官としての類稀なる力量を発揮しています。
魏領の淮南を攻略するシーンでも夜襲・伏兵と戦略家としての腕前も魅せました。
ライバルである魏・蜀に対して大きな武功をあげたのが陸遜なのです。
充分に派手な活躍ぶりだと思いますし、
どんどん出世もしていき荊州に身を置きながら丞相の地位にまで上りつめています。
三国志のカリスマである諸葛亮孔明と比べると確かに物足りない部分もあるのかもしれませんが、
三国志の英雄のなかでは特筆すべき活躍だと思います。
決して地味ではありません。
呉書がやや簡略化されているのは、呉に関する資料が不足していたからだとも云われていますが、
それでも呉書のなかでは飛び抜けたヒーローぶりを伝えています。
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三国志ライター ろひもと理穂の独り言
それでも尚、やや陸遜に暗い雰囲気がつきまとうのは、
やはり陸遜の最期が悲惨なものだったからでしょう。
孫権の老害の被害者。というイメージが強いですが、
孫権に執拗になじられ、憤死というのはあまりに悲しい幕引きです。
孫権がもう少し早くに隠居し、太子の相談役として陸遜が呉のリーダーシップをとっていたら
呉の衰退は免れられたかもしれませんね。
ただしそこまでは孫権は、玉璽を陸遜に託すほどでしたから、
絶大な信頼をしていたのは間違いありません。
もう少し脚光を浴びてもいい英雄なのではないでしょうか。
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