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小覇王、孫策(そんさく)、彼に息子がいた事は知られていますが、
娘がいた事は余り知られていません。
しかし現実に、孫策には、娘が二人~三人おり、その一人は呉の重臣
顧雍(こよう)の長男、顧邵(こしょう)に嫁いでいます。
では、そんな顧夫人の人生はどういうものだったのでしょうか?
顧夫人の母は、あの大喬なのか?
孫策と言えば、盟友の周瑜(しゅうゆ)と共に、大喬(だいきょう)、
小喬(しょうきょう)という美人姉妹を妻にした事で有名です。
そうなると、顧夫人の母は、あの大喬なのか?と考えてしまいます。
ですが、それはどうも見込みが薄いようです。
というのも、大喬が孫策の妻になったのは、三国志、周瑜伝によると
西暦199年の事だからです。
おまけにその4ヶ月後には、孫策は刺客に襲われ死んでしまいます。
大喬と孫策の結婚生活は、たった4カ月に過ぎないのです。
それから、もうひとつ、後に顧夫人が妻になる顧邵は184年の産まれです。
西暦199年ではすでに15歳になっています。
仮に、顧夫人が大喬の娘であるなら、彼女はまだ赤ん坊という事です。
顧邵は顧夫人を娶るまで十年以上待たないといけなくなります。
仮に顧夫人が15歳で嫁ぐとしてもその時、顧邵は三十歳になっているのです。
これだけ年が離れた結婚は正妻と死別して後妻を求めるとかではない限り、
考えにくいと言えると思います。
つまり、顧夫人は、大喬の娘ではなく、それ以前に孫策が娶った、
夫人の娘であるという可能性が高いのです。
孫策は何歳で結婚したのか?
孫策の妻については、大喬以外は不明ですが、西暦200年に、
26歳で死去した頃、男子1名、女子が2~3名いたようです。
孫策の子は年齢もバラバラですから、孫策と4カ月しか暮らしていない
大喬が全ての子を産むのは無理です。
では、孫策はいつ頃、結婚したのか?ですが、袁術(えんじゅつ)の将として
活躍を始めた西暦194年頃ではないかと思います。
当時の孫策は19歳、朱治(しゅち)、黄蓋(こうがい)、韓当(かんとう)、
程普(ていふ)のような孫堅(そんけん)時代の武将を取りかえした頃です。
正妻については、恐らくですが、長く自分の手元に引き留める為に
袁術が仲介をして妻を世話したのではないかと思います。
陸遜の妻は、顧夫人と姉妹、華麗なる一族
孫策の死後、残された妻子は、後を継いだ孫権(そんけん)に保護されます。
孫権は自身の権力基盤を強化する為にも、孫策の娘達に目をつけて、
呉では名族とされる、顧氏、陸氏などに嫁に出し、出自が低く、お世辞にも
立派とは言えない新興勢力の孫氏との結びつきを強めようとします。
そこから分るのは、顧夫人は、自分で自由に恋愛できるような
境遇には無かったという事でしょう。
もしかしたら、将来を誓えるような相手もいたかも知れませんが、
それは、父の弟である孫権の一言で崩れ去るモノでしかありませんでした。
孫権は、陸遜(りくそん)と、顧邵(こしょう)にそれぞれ孫策の娘を与えます。
同じく朱治(しゅち)の子の朱紀(しゅき)にも孫策の娘を与えたとも言われます。
華麗なる一族と言えば、確かに呉でこれだけ豪華絢爛な一族はないでしょう。
社交的で明るい夫、顧邵
顧夫人は、当時の慣例で行けば、15歳位で嫁に行ったでしょうから、
夫である顧邵とは、210年前後に結婚した事になるでしょうか。
顧邵には、陸遜の姉妹が妻で確認できますので、顧夫人は第二夫人に
なるのかも知れません。
この顧邵は、大変な博識で知られ、妻の弟の陸積(りくせき)と同等の名声を持ちました。
陸遜は陸積と同族ですが分家なので、その名声は陸積より落ちます。
名門と人間的な魅力で、顧邵には、多くの名士が集まり交際を求めようとしました。
あの龐統(ほうとう)も顧邵の友達で、周瑜の棺を運ぶ折に一緒に行動し
「足が遅いが力のある牛」とユニークな評価を顧邵に与えています。
恐らく名門らしく、こせこせとしない性格ながら、確かな実力を持ち、
一歩一歩、着実に実績を積み上げる人だったのでしょう。
孫権は、そんな顧邵の人脈に目をつけて、孫策の娘の顧邵を与えた
のですから、顧家は、大変に華やかだったと思います。
陸遜には、顧夫人の姉妹が嫁いでいますし、
顧邵の母もまた陸氏の人間で、陸積の姉にあたる人なのです。
ですから、交流も盛んで顧夫人も寂しくは無かったかも知れません。
顧夫人とはどんな人?小覇王・孫策の娘の謎に満ちた生涯
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