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もし趙雲が魏に仕えていたらどうなっていた?【ろひもと理穂if考察】

2017年1月25日


 

ろひもと理穂さん01

 

こんちゃす。どうも、ろひ理穂だよ♪

(最近、ねこてんさんがツボなんで真似してみました)

今回は引き続き「趙雲子龍」について考察していきたいと思います。

 

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監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。戦略設計から実行までの知見を得るためにBtoBプラットフォーム会社、SEOコンサルティング会社にてWEBディレクターとして従事。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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蜀の五虎将軍

趙雲

 

人材不足が否めない蜀において、猛将・名将として名高い五人の将軍がいます。

関羽を筆頭に、張飛趙雲馬超、黄忠の五人です。五虎将軍と呼びます。

五人とも一騎打ちでも素晴らしい武芸の腕前を披露していますが、

兵を率いての戦闘でも数々の武功をあげています。

 

趙雲 長坂の戦い

 

趙雲は、西暦208年の長坂の戦いでは、

主君の子息を抱いて戦場を駆けまわるという神業を披露していますし、

西暦213年の定軍山の戦いでは空城の計で敵をあしらいました。

荊州南部の攻略や益州各郡の攻略にも貢献しています。

蜀の将のなかでも劉備からの信頼がとても厚かった名将です。

 

趙雲が魏に仕えていたら

五虎大将軍 趙雲

 

趙雲は冀州の常山郡の出身です。

冀州といえば韓馥や袁紹が刺史になった土地であり、

公孫瓚や曹操が攻め込んで戦場となったような群雄割拠の激戦地になります。

趙雲は始め義勇兵を率いて公孫瓚の配下になっています。

何かしらの魅力を公孫瓚に感じたからでしょう。そこで劉備に出会いました。

やがて公孫瓚が滅んだ後、袁紹のもとにいた劉備を訪ねて配下に加わっています。

このように趙雲は勢力の大きさや名声などには左右されず、

志のある人間に協力したいという信念があるようです。

忠義の士として最後まで劉備に従う趙雲の根底はここではないでしょうか。

はたして趙雲が曹操と出会っていたら、趙雲は魅力を感じることができたのでしょうか。

一番興味があるのはこの点ですね。

曹操の方は、冷静沈着で武勇に秀でた趙雲を手ゴマにしたいときっと思ったはずです。

そして活躍の場をきっと趙雲に与えたことでしょう。

 

黄巾賊

 

趙雲は魏で活躍できたのか

張遼・楽進・李典

 

夏候惇や夏侯淵、曹仁や曹洪于禁徐晃張遼張郃

許褚楽進、李典など名将揃いの魏において趙雲はどれくらいの働きができたのでしょうか。

なにせ曹操は四方八方を敵に回していました。黄巾賊や董卓、その残党だけでなく、

呂布や袁術陶謙劉備、孫策そして袁紹。武功をあげる機会は無数にあるのです。

兎角、当初の曹操は我慢の戦が続いています。大軍相手に寡兵で戦うこともしばしばです。

趙雲のメンタルの強さはきっと活きたのではないでしょうか。

戦場で疲れも見せずに働く趙雲の背中はきっと曹操を励ましたことでしょう。

能力主義の曹操ですからそんな趙雲を重く用いることになったはずです。

 

関羽が認めた名将・張遼、徐晃

顔良と関羽

 

プライドの塊のような関羽は、めったに相手を認めません。

例え官位や権威が上の相手であってもへつらうようなことは絶対にありません。

ただし、その力を認めた相手には心を許す傾向があります。

魏の将軍のなかで関羽に認められたのは、張遼と徐晃です。

ちなみに仲間である蜀の将軍で関羽に認められたのは張飛と趙雲くらいではないでしょうか。

趙雲は関羽から義弟のように可愛がられています。

そう考えると魏に仕えていたとしたら

趙雲は張遼や徐晃と同じくらいの功績を残せたのではないかと思います。

 

三国志ライター ろひもと理穂の独り言

ろひもと理穂

 

実は趙雲は生え抜きに近い年月を劉備のもとで働いていましたが、

五虎将軍としての扱いは最下位でした。

あの魏延よりも官位は低かったと云われています。

なぜそうなったのかは謎が多いですが、

それに対して趙雲が不平不満を漏らしたという記録は残ってはいません。

もしかすると出世することを望まないタイプの人間だったかもしれません。

その性格をいいことに劉備は出世を望む他の将を厚遇したのではないでしょうか。

曹操であれば確実に趙雲の力を認め、実績を積ませ、破格の待遇をしたような気がします。

満ち足りている趙雲……何かハングリーさに欠けますね。

そうなると現代の趙雲の人気はここまでなかったかもしれません。

はたしてどちらが良かったのか……。

きっと趙雲は劉備のもとで働くことに満足していたことでしょう。

そこが趙雲の魅力でもありますよね。

みなさんはどうお考えですか?

 

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ろひもと理穂

三国志は北方謙三先生の作品が一番好きです。 自分でも袁術主役で小説を執筆しています。ぜひこちらも気軽に読んでください! 好きな歴史人物: 曹操、蒲生氏郷

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