三国志には、呂布(りょふ)絶対殺すマンの劉備(りゅうび)や、
曹操(そうそう)絶対殺すマンの馬超(ばちょう)など、相手に対して
激しい敵意を燃やす武将が登場します。
今回、登場する藏洪(ぞうこう)は、三国志演義には出てきませんが、
様々ないきさつから袁紹(えんしょう)絶対許さないマンになってしまった人です。
しかし、よくよく考えると、その恨みは逆恨みっぽいのです。
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この記事の目次
容姿に優れた張超の親友、藏洪(ぞうこう)
藏洪(?~196年)は字を子源(しげん)と言い、
徐州(じょしゅう)広陵(こうりょう)郡射陽(しゃよう)県の人です。
若くして容姿端麗で背が高いと評判で、当時の慣習で孝廉に挙げられ、
即丘県令に任命されました。
しかし、時代は霊帝の末年、政治は腐敗し、
清流派の彼は官を投げ捨て故郷に隠遁してしまいます。
それを見て、その才能にほれ込んだのが張超(ちょうちょう)でした。
彼は、曹操の親友として有名な張邈(ちょうばく)の弟にあたります。
張超は藏洪を功曹にして、郡の太守の仕事を任せました。
この態度に感激した藏洪は、以後死ぬまで張超を尊敬します。
反董卓連合軍の宣誓式のスピーチの大役を任される
やがて、霊帝が死ぬと、ひと悶着あり、少帝が即位しますが、
そこに董卓(とうたく)が入ってきて権力を握り、暗愚な少帝を
廃位した上に毒殺するという事件が起こります。
このニュースを聞いた藏洪は激怒して、張超に言いました。
藏洪「殿は、代々漢朝の恩義を受け、御兄弟で大郡の長に任じられています。
しかし、朝廷では、逆臣がのさばり、未だに縛り首にもなっていません。
今こそ、天下の義士が立ちあがり、長年に渡る漢朝の恩義を返す時です。
幸いにも、広陵は国境を侵されず、民は豊かで人口も多く、
呼びかければ、二万の軍勢は楽に集まりましょう。
この大軍を以て、逆臣を討ち滅ぼす事こそ、歴史に輝く大業ですぞ」
張超はもっともだと思い、兄の張邈の所で計画を打ち明けると、
元々、そのつもりだった張邈は大いに喜びます。
張邈と張超の兄弟は兵を起こして酸棗(さんそう)に向かいました。
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兄は、張超に聞く、藏洪のどこがいいの?
酸棗に到着した張邈は、弟を呼び出して聞きます。
張邈「聞けば、お前は郡の仕事を藏洪とかいう人間に任せていると言うが、
藏洪とは、それほどまでに優れた人物か?」
張超「はい、藏洪は知略も才覚も権謀も私に遥かに勝ります、
私は、甚だ彼を愛しています、海内の奇士です!」
張邈は、弟がそれほどまでに褒める藏洪と会ってみたくなり、
引見してみると、評判にたがわない異才だったので、自身も
深い交友を結んだそうです。
藏洪、一世一代の晴れ舞台、酸棗の誓いを読み上げる
酸棗には、さらに、兗(えん)州刺史劉岱(りゅうたい)、
豫(よ)州刺史孔伷(こうゆう)、東郡太守橋瑁(きょうぼう)が集まり、
大軍勢になります。
そこで、五諸侯は、この地で生贄を殺して董卓誅滅の誓いを立てよう
じゃあないかという話になりました。
劉岱「ここは、連合軍の言いだしっぺの張邈殿が・・」
張邈「いやいや、、ワシなどは若輩、、ここは年長の孔伷殿が適任!」
孔伷「待った、待った、こういう事は年齢ではあるまい?」
橋瑁「では、張邈殿の弟君の張超殿が行っては?」
張超「兄上を差し置いて、弟の私が行うのはいかがなものか?」
藏洪「おい、こんな事で譲り合っている場合じゃないだろ!
じゃあ、俺がやるよ!」
五諸侯「どうぞ、どうぞ!」
このようなダチョウ倶楽部的な譲り合いの末に、五諸侯は、
藏洪を適任者と決めて、宣誓文は藏洪が読みあげます。
宣誓文とはどんなものだったの?
藏洪が読み上げた、宣誓文は大体以下のような内容です。
「漢室は不幸にして正統性を失い、
賊臣董卓めが隙に乗じて危害を加え禍いは皇帝に及び、
残虐な行いは百姓を蝕んでいる。
このままでは、社稷は静まらず、混乱は四海を破り、
天地がひっくり返る、我々は、その事を危惧しているのである。
我々、董卓絶対殺すマンズの、兗州刺史、劉岱、豫州刺史、孔伷、
陳留太守、張邈、東郡太守、橋瑁、広陵太守、張超は義勇兵を連合して
一致団結し国難を除く為に董卓を誅殺する事を決意した!
我々の同盟は心を一つに力を併せ家臣としての忠義を全うし、
例え首を失う事になろうとも、二心は決して懐きはしない!
この盟約に違反する者があらば、その命を失い子孫は絶えるであろう。
皇天后土よ、祖宗の明霊よ、我々の行動を見守られよ!」
藏洪の言葉は、世を憂う使命感に満ち、頬を伝って涙が流れ、
その言葉を聞いて、感動しない者はいませんでした。
しかし、御承知の通り、酸棗の反董卓連合軍は、曹操等、
一部を除いては、ウダウダと宴会を繰り返すばかりで積極的に戦わず、
やがて兵糧が尽きたので解散しました。
涙を流してまで宣誓を読み上げた藏洪っていったい・・
藏洪、張超の使者として、北に赴き、袁紹の配下になる
反董卓連合軍を解散した後、張超は、幽州の劉虞(りゅうぐ)と
コンタクトを取る為に藏洪を派遣します。
この劉虞とのコンタクトは、袁紹が考えていた劉虞を皇帝に立てるという
計画の一部なのか、それとも劉虞が考えていた献帝を奉戴する上で、
没落した袁術に代わる味方が欲しくて、張超にアクセスした結果か分かりません。
しかし、その頃は幽州と冀州で、劉虞VS公孫瓚(こうそんさん)の戦いが起きていて
藏洪は、劉虞と会う事が出来ず、やがて劉虞は公孫瓚に敗れて殺されました。
袁紹は、藏洪を引見して、その優秀さを認め、刺史の焦和(しょうわ)が死んで、
盗賊の被害により荒れ果てていた青州の統治を任せます。
藏洪は二年の在任中に盗賊をすべて捕え、州の治安を回復したので、
袁紹は、ますます藏洪を重用しました。
張超との悲しい別れ、藏洪、袁紹を恨む
藏洪が青州刺史になって、2年目に大事件が起きました。
西暦195年、陳宮(ちんきゅう)と呂布の計画に乗って、
兗州を乗っ取り計画に加担した張邈と、張超の兄弟が
曹操の巻き返しで窮地に陥ったのです。
呂布と陳宮は兗州を逃亡し、張超は兄の命令で一族と共に、
雍丘(ようきゅう)に立て籠もっていました。
曹操と張邈は元々、無二の親友で、裏切られた曹操の怒りは、
弟の張超にも容赦なく向けられます。
この時、張超は藏洪の援軍を信じていました。
張超「私はただ、藏子源の援軍を頼りにするのみだ・・
彼は必ず救援に来るだろう、、しかし、恐らく
袁紹は許さないであろうな・・」
しかし、世間は、袁紹の恩義を受けた藏洪が張超を救援には来ないと
考えていました、そもそも、曹操はこの頃、袁紹の配下のようなもの、
兗州奪還にも、袁紹の援護があったのです。
ところが、世間が何と言おうと、張超は藏洪を微塵も疑いませんでした。
一方の藏洪も、張超の危機を知ると、裸足のままで飛び出し泣き叫び
兵を揃えて、救援に赴くべく袁紹に許しを乞います。
ですが、袁紹は許可を出しませんでした、当たり前です。
曹操は袁紹の支配下であり、今、張超を攻めさせているのは、
袁紹の支持を受けての事だからです。
藏洪が食いさがる間に、雍丘は陥落、張超の三族は皆殺しにされます。
これにより藏洪は袁紹を深く恨み、東武陽で離反し袁紹とは絶交します。
投降を進める袁紹の手紙を拒絶して籠城
袁紹は軍を派遣して、東武陽を囲みますが、藏洪は堅く守り城は落ちません。
そこで、袁紹は藏洪とは旧知の陳琳(ちんりん)を呼んで降伏を呼び掛ける
手紙を出します。
しかし、藏洪は、それを拒否する返書を送り、あくまで籠城しました。
袁紹は、これにより城の攻撃を厳しくします。
城内の食料の蓄えは底をつき、藏洪が呂布の元に派遣した司馬二名も、
任務を果たせない可能性が強くなりました。
藏洪「私は袁紹の非道により守るべき友を失った故、このまま死ぬ、、
しかし、それは君達には関係のない話、どうか、城が落ちない間に、
脱出して生き延びてくれ」
ところが、藏洪を慕う兵士は、お供しますというばかりで、
離れようとしませんでした。
愛人を殺して、その肉を兵士に振る舞う藏洪
飢えた城内の兵士は、最初は穴を掘って鼠を捕えて食べ、次には、
皮の鎧や軍鼓、兜の角の繊維を煮て食べ、飢えを満たしました。
その時、厨房には、三斗の米があり、主簿は、これを半分、
薄いお粥にしましょうと進言します。
すると藏洪は
「この薄粥を私一人で食べる事が出来ようか・・」と言い、
水で薄めて、その場にいる全ての兵士に振る舞い、
さらに愛人を殺して、その肉も副菜として兵士に与えました。
その時、7~8千人もいた兵士は、感激して、誰も藏洪の顔を
まともに見れなかったと言います。
城が陥落する寸前、全ての兵士は自殺して果て、
ついに袁紹に投降する人間はいませんでした。
袁紹、ついに藏洪を殺す・・
やがて、城門が開き、袁紹の軍勢が殺到します。
袁紹は真っ先に、藏洪の身柄を確保し、自殺を許しませんでした。
こうして、袁紹は藏洪を宴会に招いて、再び、自分に仕えるように説得します。
しかし、藏洪は、衰弱した体を地に預けて、目を瞑り言います。
「あんた達、袁家は、長らく漢王朝の恩恵を受けて四世三公の地位にある
当然、義理があるなら、漢王朝を救い、賊を除くのが当たり前であるのに
そんなつもりは微塵もなく、願ってはならない野心を持ち、いたずらに
忠義の臣を殺して、虎狼のように振る舞っておる・・
私は、あんたが、張邈を兄と呼んでいた事を覚えているぞ、、
張邈が兄なら、私の主の張超は、あんたに取っても弟だ!
それを、どうして他人が殺すのを黙って見ていたのか!
返すがえすも残念なのは、私に力がなく、あんたを殺して、
主君の仇を討つ事が出来ないことだ!」
袁紹は、藏洪の言葉が激しく、そしてその顔つきに微塵も、
自身に降伏する気がない事を悟り、後難を恐れてこれを殺します。
もう一人、捕虜になった陳容(ちんよう)という人物が藏洪を殺した袁紹に
猛然と抗議し、袁紹を詰りました。
袁紹は、ムッとして「お前は肉親でもないのに、どうして藏洪を庇う」と言うと、
「お前のような不義の輩と生きるより、藏洪と共に大義に死んだ方がよい」
と叫んだので、カッとした袁紹は陳容も殺します。
宴会場は静まり返り、
「一日の間に、二人の烈士を殺す事はあるまい・・」という
ヒソヒソ声が聞こえたと言います。
なんだか分りませんが袁紹の株を下げた藏洪の処刑でした。
三国志ライターkawausoの独り言
一人で悪者にされた袁紹ですが、実際には、曹操が徐州を荒らし回る間に
曹操の本拠地、兗州で蜂起したのは、呂布であり陳宮であり、張邈と張超でした。
しかも、陳宮は袁術(えんじゅつ)の援護を当てにして決起したという話もあります。
袁紹としては支配下の曹操が本拠地を奪われ、しかも、袁術の軍勢が、
その反乱軍の背後にいるとなれば、謀反人の張超を救う為に、
藏洪を援軍に出すわけがありません。
張超や張邈が曹操に復讐されるのは、曹操の信任を裏切り、陳宮や呂布に
乗せられた自業自得であり、もし、袁紹が藏洪に張超の救援を許可したら、
曹操はブチ切れたに違いないでしょう。
さんざんに罵倒された袁紹ですが、あの場ではああするしか方法はないのです。
藏洪は、有能ではありますが、張超と自分の信義でしか、世の中を見れない
視野が狭い人で袁紹の立場を理解できなかったのでしょうね。
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