広告

韓馥(かんふく)とはどんな人?三国志一被害妄想が激しく袁紹に怯え自殺してしまった武将

2017年4月11日


 

はじめての三国志コメント機能バナー115-11_bnr1枠なし

 

三国志で活躍するような人々は文官、武官を問わず皆、度胸は座っています。

そうでないと恨みを買うのを恐れて、思い切った事は出来ないでしょう。

しかし、どんな世界にも例外がいて、中には産まれた時代が悪かったというような

気の弱い群雄が出てきたりするのです。

今回紹介する韓馥(かんぷく)も、そんな産まれた時代が悪かった気の毒な群雄です。

 

関連記事:民話の中の三国志がカオスな件!関羽が作者羅漢中にブチ切れる

 

監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


【誤植・誤字脱字の報告】 バナー 誤字脱字 報告 330 x 100



【レポート・論文で引用する場合の留意事項】 はじめての三国志レポート引用について



最初から弱虫、董卓の要請を断り切れず冀州牧に就任

 

韓馥は字を文節(ぶんせつ)と言い、豫州潁川(よしゅうえいせん)郡の産まれ、

あの荀彧(じゅんいく)などと同郷の出身です。

ところが韓馥は、からきし意気地がなく、御史中丞として仕えていた頃に、

政変が起きて董卓(とうたく)が政権を掌握すると、その命令で冀州牧になりました。

 

彼が冀州牧になったのは理由がありました、董卓と断交して洛陽を去った

袁紹(えんしょう)を董卓は懐柔しようと渤海(ぼっかい)の大守にしていたのですが、

あまり信用しておらず、韓馥を通じて袁紹を監視するように命じていたのです。

 

韓馥は、元々袁家のお世話になっていたのですが、董卓の強圧に逆らえず、

従事を3名程使って袁紹を監視し、兵糧の援助などもわざと少なく行い

意地悪を行っていました。

 

それが、いつか袁紹を亡き者にする為なら大したものですが、

韓馥は、ただ董卓が怖いだけで、その意に沿う方向で動いているだけでした。

ようするに気が弱いから余計に董卓に気に入られようとして、

袁紹が困る事を考え、結果として忠実な協力者になっているのです。

 

橋瑁が決起文を全国に飛ばしても右往左往する始末・・

 

西暦190年、董卓の暴政に対して、東郡大守の橋瑁(きょうぼう)が決起文を送り、

反董卓連合軍結成を呼びかけます。

地理的に近い、冀州の韓馥には早めに檄文が届くのですが、弱虫韓馥は右往左往です。

 

「なぁなぁ?董卓と袁家のどっちが勝つだろうか?勝つ方につきたいのだが」

 

それを聴いた部下は呆れました、董卓が帝を操り暴政を行っているのに、

今更、勝つ方に付こうなど臣下の道ではないと思ったのです。

 

「でもさあ、負けたらきっとワシは処刑される、それが恐ろしいんだ」

 

ウジウジ悩んでいる韓馥に部下は渋々言いました。

 

「では、何も言わず様子を見て、誰かが挙兵に応じたら、それに従われよ。

それなら、一番手よりは罪が軽いでしょう」

 

韓馥は名案だと飛びつき、様子を見ながら、袁紹に董卓の暴政を手紙で報告。

袁紹が手を挙げたので、自分もそれに従い挙兵しました。

卑怯です、全く卑怯者です。

 

まるで戦わず、董卓の退却を見逃す

 

そんな弱虫の韓馥ですから、いざ戦争となっても先陣を切る事もなく、

他の諸侯と延々と議論をやるか宴会をしてばかりでした。

袁術(えんじゅつ)孫堅(そんけん)曹操(そうそう)が、かなり董卓討伐に

やる気を見せている頃、韓馥にあるのはどうやったら勝ち組に残れるかだったのです。

 

やがて、不利を悟った董卓が洛陽を焼き払い、長安に引き上げると、

これを追撃して撃破すべしという意見が起こりますが、

韓馥は、そこから近い鄴(ぎょう)にいながら、董卓を恐れて追撃しませんでした。

 

袁紹と共に劉虞を皇帝に立てようとするも、再三拒否される

 

本拠地に帰った韓馥は袁紹と連名で幽州牧の劉虞(りゅうぐ)を皇帝に立てようとします。

こうして、長安の献帝を偽物にして、こちら側の求心力を高めようというのです。

袁術や曹操は、帝を二人にして混乱を広めるだけだと猛反発、韓馥は諦めず

劉虞と直接会ってまで皇帝即位を勧めますが、あっさり拒否されました。

また、官爵を発行させる為に劉虞に尚書を勤めさせようとしますが、

これも劉虞に断られてしまいました。

 

安平にいる時、公孫瓚に攻められ敗北、恐怖心を抱く

 

安平に帰還した韓馥ですが、そこに公孫瓚(こうそんさん)が攻め込んできました。

反董卓連合軍に参加しないで勢力を伸ばしていた公孫瓚は、冀州を狙っていたのです。

弱虫の韓馥が白馬義徒の公孫瓚に勝てる筈もなく簡単に撃破されると、

周辺の武装勢力も韓馥を見限り、公孫瓚に味方するようになります。

 

怖っ、公孫瓚こわっ・・どどど・・どうすればいいんだ?」

 

韓馥は、公孫瓚が再び攻めてくるのではと恐れ、言い知れない不安を抱え

右往左往するようになります。

 

補給に苦しむ袁紹は、冀州を奪おうと画策する

 

その頃、渤海の袁紹は、本拠地を公孫瓚に奪われ兵糧不足に苦しんでいました。

袁紹の部下であった逢紀(ほうき)は、

韓馥の意気地なしを逆手にとり公孫瓚を焚きつけ韓馥を襲わせて、

韓馥が袁紹を頼らざるを得ないようにすべしと進言しました。

 

その通りにすると、公孫瓚は韓馥を攻め韓馥は防戦一方です。

こうして、韓馥の将だった麴義(きくぎ)は愛想を尽かし部曲を引き連れて

袁紹に寝返り、張楊(ちょうよう)・於夫羅(おふら)も袁紹に付きました。

孤立した韓馥は、さらにパニックになりますが、ここで袁紹が使者を出します。

 

「あんたに冀州牧は無理だ、俺様が公孫瓚を追い払うから州牧を譲れ」

 

袁紹、まるで土地ころがしをしているヤクザです。

自分で公孫瓚を焚きつけて韓馥を攻撃させ、自分は正義の味方の顔で、

お前を守るから、州牧を譲れというのです。

 

普通なら「バカにするな!」と突っぱねる所ですが、そこは三国志一の臆病者韓馥、

州牧を辞めて命が助かるならと気持ちがぐらぐらしだします。

韓馥の部下は「あなたは州牧、袁紹は根無し草、戦えばあなたが勝つのに、

どうして相手の鼻息を窺うのか?」と反対しますが、公孫瓚が怖くて仕方ない韓馥は

とうとう州牧の地位を袁紹に譲り、自分は袁紹の部下になりました。

 

奮武将軍になるが、今度は袁紹を恐れ張邈に身を寄せるが・・

 

韓馥は、袁紹の軍門に下り、奮武将軍になりますが、実権はありませんでした。

次々と韓馥の部下が彼を見限る中で、耿武(こうぶ)と閔純(びんじゅん)だけは

忠義を尽くし、袁紹を暗殺しようとして田豊(でんほう)に察知され殺されてしまいます。

しかし、それさえも韓馥にとってはマイナスになりました。

袁紹が謀反の報復で、自分も殺すかも知れないと恐れた韓馥は被害妄想になり

ついに袁紹の陣営を出奔して張邈(ちょうばく)を頼るのです。

 

どっちかと言えば、いきなり出奔する方が不信感を買う気がしますが、

もう、疑心暗鬼の韓馥からは判断力が消えていたのでしょう。

 

さらに韓馥の行動のオカシイのは、張邈と袁紹は幼馴染みで交友があった事です。

そう、袁紹の使者は、度々張邈の元を訪れていました。

なんだよ、、これじゃ、出奔した意味ないじゃん・・・

 

そして、ある時、張邈と袁紹の使者が耳打ちして、

ヒソヒソ話をしているのを目撃した韓馥は絶望します。

 

(ああ、、袁紹がワシを暗殺するように張邈に頼んでいるんだ・・

もうダメだ、もう、おしまいだぁ・・)

 

勝手に勘違いした、韓馥は席を離れてトイレに向かうと、

そこで梁に縄を掛けて自殺してしまったのです。

 

三国志ライターkawausoの独り言

 

韓馥が恐れる程、袁紹は韓馥に関心がありませんでした。

大体、あまりに臆病すぎて、自分に叛くなど考えられなかったのです。

韓馥は、全くの被害妄想と誇大妄想から、自らの生命を絶ってしまったのでした。

ちなみに、弱い者が強い者の権勢を恐れ、その歓心を買おうとするという意味の

「鼻息をうかがう」という慣用句は韓馥が袁紹に冀州牧を譲ろうとした故事から

出てきているそうです。

 

関連記事:劉備と趙雲が出会う事になったきっかけを作ったのは袁紹のおかげ?

関連記事:【華麗なる名門一族】袁紹のおじいちゃん達ってどのくらいすごい人だったの?

 

 

—古代中国の暮らしぶりがよくわかる—

 

  • この記事を書いた人
  • 最新記事
kawauso

kawauso

台湾より南、フィリピンよりは北の南の島出身、「はじめての三国志」の創業メンバーで古すぎる株。もう、葉っぱがボロボロなので抜く事は困難。本当は三国志より幕末が好きというのは公然のヒミツ。三国志は正史から入ったので、実は演義を書く方がずっと神経を使う天邪鬼。

-はじめての漢
-,