【ビジネス三国志】陳琳や周瑜、諸葛亮孔明に学ぶ失敗学

2017年4月24日


 

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ビジネスシーンには、失敗はつきものです。

その人生を通じて全ての商談や商品開発、マーケティングが上手く行ったという

幸運なビジネスマンは恐らく一人としていない事でしょう。

しかし、失敗して浮上出来ない人と失敗しても何度も用いられる人はいます。

そこには、失敗を失敗で終わらせないプラスαがあるかないか?に関係します。

作戦の失敗が死に直結する三国志の世界でも、失敗にプラスαを付け加えて、

見事に再起した人々は存在するのです。

 

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監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。戦略設計から実行までの知見を得るためにBtoBプラットフォーム会社、SEOコンサルティング会社にてWEBディレクターとして従事。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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失敗した時に言ってはいけない二つのタブー

 

会社があなたに仕事を任せた時、最も期待するのは成功を収める事です。

ですから失敗する事は、会社の期待を裏切った事に他なりません。

 

そのような場合に、出来なかった事の言い訳をするのは最大のタブーです。

言い訳がどんなに素晴らしかった所で、失敗が成功になるわけではありません。

逆に失敗を認めない頑固な人間だと捉えられ傷口を広げるだけです。

 

もう一つのタブーは自分がどんなに頑張ったかを力説する事です。

そりゃあ、あなたは頑張ったでしょう、努力したのでしょうが、

ビジネスは結果が全てなのです。

 

逆に言えば、頑張らなくても成功すれば最大限の評価は貰えます。

頑張った努力したとは、どこまでも当人の中の価値でしかありません。

努力して失敗しても褒められるのは、子供の時だけと考えるべきです。

 



曹操を唸らせた陳琳の敗戦の弁

 

陳琳(ちんりん)は建安の七子に数えられる名文家で、

元々は北方四州を支配する雄、袁紹(えんしょう)に仕えていました。

そして、袁紹の依頼で雌雄を決する事になった曹操(そうそう)

誹謗(ひぼう)中傷する檄文を書いて各地にばら撒く事になります。

 

檄文とは、元は木簡で戦争の大義を記して賛同者を集めると同時に、

敵対勢力を貶める役割もありました。

陳琳の檄文は、曹操の評判を下げて味方を減少させるプロパガンダでしたが、

曹操ばかりではなく、その父も祖父も口汚く罵倒していて、曹操は激しく

機嫌を悪くしていました。

 

ところが戦争は曹操の勝利に終わり、陳琳も捕えられました。

 

曹操は、陳琳の檄文を名文だと褒めた上で、

「自分の父や祖父の事まで悪く言うのはルール違反ではないか」と責めました。

それに対して陳琳は少しも言い訳めいた事も言わず、

 

「引き絞った弓矢は、放たれずにはおかないものです」と答えました。

 

つまり陳琳の仕事は、文章によって曹操と戦う事であって、

そうであれば、タブーなど造らず全力で曹操を「口撃」しないといけない。

手加減などしてはいられないではないかと言うのです。

 

曹操はプロに徹した陳琳の答えを気に入り、部下として登用したのです。

まさに敗戦というマイナスにプロ意識というαを付け加えて、

なんだかんだ言っても有能には違いないと曹操を納得させたのでした。

 

失敗を元に成功を引き寄せる 周瑜

 

周瑜(しゅうゆ)は、江東の小覇孫策(そんさく)と義兄弟ですが、

孫策の死後も、その弟、孫権(そんけん)に仕え、赤壁の戦いで曹操を撃破するのに

主要な役割を果たしています。

 

西暦209年、周瑜は赤壁の敗戦で隙が生じた荊州南郡を奪い取ろうと、

同僚の程普(ていふ)と共に曹操軍の守将曹仁(そうじん)に攻めかかります。

ところが乱戦の中で周瑜は右脇腹に矢傷を負って、退却してしまうのです。

 

傷は重く作戦は失敗かと思われましたが、周瑜のド根性はここからでした

むしろ、病が重くて動けないフリを演じて曹仁を誘う事にします。

曹仁は、周瑜の命を削るような計略に引っ掛かり、大挙して打って出ると

周瑜が自ら指揮する呉軍の逆襲にあい大ダメージを受けてしまい、

南郡を放棄し、北に戻ってしまいます。

 

これなどもまさに、矢傷を受けて失敗したという不始末を逆利用して

敵を誘いだし、打ち破るという点でマイナスにαを加えてプラスに転じています。

結局、周瑜は、この傷が元で36年の人生を終えますが、転んでもただでは起きない

周瑜の成功への執念は大いに見習うべきでしょう。

 

プラン崩壊も視点変更で存在意義を保つ 諸葛亮孔明

 

諸葛亮孔明(しょかつ・りょう・こうめい)は、荊州と益州を劉備(りゅうび)が抑えて、

呉と連携しながら曹操を滅ぼすという、天下三分の計という遠大なプランを持って

仕官しました。

ところが、このプランは、呉が寝返り荊州南郡の関羽(かんう)を殺してしまった事で、

荊州への足がかりを失い、事実上実現不可になってしまいます。

 

こうなると孔明の存在意義も弱くなってしまいますが、

そこは天下の大軍師である孔明、天下三分計を断念する事なく路線変更します。

すなわち、荊州は呉との同盟を堅持する理由から諦め、北の涼州を魏と分断し

その豊富な騎馬兵を用いて、漢王朝の都だった長安を落し漢王朝の再興を図ります。

 

 

そして、目に見えるアクションとして北伐を設定して、一見幻に消えた

天下三分計が、よりアクティブな姿勢で甦ったように路線変更したのです。

これは、苦しいっちゃあ苦しいのですが、はい失敗、おじゃん!でなく

実現可能な路線としてプランを再構築した点に孔明のプラスαがあります。

 

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ビジネス三国志ライターkawausoの独り言

 

陳琳周瑜、孔明の三者に共通するのは、失敗をダメでしたでは終わらせず、

それにプラスαして前向きなビジョンを付け加えた点です。

私達が彼等の上司だったと仮定すると、そのプラス志向が目に入ると思います。

部下としては頼もしく、かわいくもありますし、また仕事を任せようという

気にもなるのではないでしょうか?

 

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台湾より南、フィリピンよりは北の南の島出身、「はじめての三国志」の創業メンバーで古すぎる株。もう、葉っぱがボロボロなので抜く事は困難。本当は三国志より幕末が好きというのは公然のヒミツ。三国志は正史から入ったので、実は演義を書く方がずっと神経を使う天邪鬼。

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