鍾会(しょうかい)。三國無双で魏のイケメン武将として活躍している武将で、三國無双をプレイしたことのある人であれば知っている方も多いのではないのでしょうか。史実の鍾会は蜀を討伐した後、蜀の大将軍であった姜維(きょうい)と一緒に反乱を起こした人物として、はじめての三国志の読者の皆様も知っていると思います。ですがみなさん。一つの疑問が生まれませんか。
それは司馬昭(しばしょう)の側近として活躍していた鍾会がどうして益州で反乱を起こしたのか。地位も実力も持っていたにも関わらずです。今回はなぜ鍾会が反乱を起こしたかについて、レンの推測を交えてご紹介したいと思います。
この記事の目次
魏のイケメン武将・鍾会の反乱理由その1:10万の軍勢を率いる将軍となったから
三国志が好きな方は色々と鍾会の反乱理由について仮説を立てていると思いますが、ここではレンが一つの推測を立てて鍾会の反乱理由を述べていきたいと思います。鍾会が反乱原因のその1として10万の軍勢を率いることになったからだとレンは推測を立てました。
鍾会は今まで司馬師(しばし)・司馬昭(しばしょう)兄弟の側近として活躍。
その智謀は前漢を建国した劉邦(りゅうほう)の軍師として活躍した張良(ちょうりょう)に匹敵するものだと評価を受けるほどの人物でした。だが鍾会が大軍を率いることになるのはこの蜀討伐戦が初めてであり、この戦い以前で10万もの大軍を率いて戦に出たことはありません。
大軍を率いて戦ったことのない鍾会がなぜ蜀討伐の将軍に任命され、大軍を率いることになったのでしょうか。それはこのような理由からでした。蜀の大将軍である姜維は連年北伐を行っており、姜維の軍勢が魏の国境を侵してくる度、魏軍は大軍を率いて蜀軍を打ち払っておりました。
司馬昭は姜維の北伐が幾度も失敗している状況を省みて、蜀の兵士・人民・国力が疲弊していると考え、蜀を討伐するチャンスがやってきたと鍾会に伝えます。そして司馬昭は鍾会へ「蜀の地形を調べておけ」と命令。鍾会は司馬昭の命令を受けて蜀に侵攻する際の進撃路や兵糧等を輸送する経路などを丹念に調べて司馬昭と蜀討伐の作戦を検討しておりました。
司馬昭は鍾会が蜀討伐を行う際、蜀の状況をよく知っていることから彼に10万もの兵力を与えて蜀討伐に向かわせることにします。
鍾会は初めて10万もの大軍を手に入れたことにより、魏から独立して国を建てようと考えたのではとレンは推測。レンの推測が的を得ていれば、鍾会の反乱原因その2もストンと納得できるのではないのでしょうか。また鍾会が10万もの大軍を率いることなく、蜀討伐軍の参謀長の地位で蜀討伐戦に向かったのであれば、蜀討伐後反乱を起こすこともなく(反乱を起こそうと考えることもなく)、司馬昭の元に帰還したのではと考えることが出来るのではないのでしょうか。
魏のイケメン武将・鍾会の反乱理由その2:他の将軍の軍勢を手中に収める
魏のイケメン武将・鍾会の反乱理由その2としてレンは、他の将軍の軍勢を手中に収めたことによって、反乱をしようとしたのではないのかと推測を立てました。もちろんこの仮説は鍾会の反乱理由その1を土台にして話を進めております。ではどうやって鍾会は他の将軍の兵士を手中に収めたのか。この経緯を述べていきましょう。
鍾会は鄧艾・諸葛緖(しょかつしょ)を蜀の大将軍・姜維の軍勢の足止めをさせるため別働隊として派遣。
鍾会自身は蜀の防衛ラインである剣閣(けんかく)へ向けて進軍していきます。
しかし鄧艾・諸葛緖の別働隊は姜維の軍勢を足止めする作戦に失敗してしまいますが、鄧艾は司馬昭から命令を受けて蜀の中心部へ出るため山中へ進軍していくことに。諸葛緖は鄧艾軍と別れて鍾会軍と合流することになります。鍾会は諸葛緖の軍勢と一緒に剣閣へ攻撃を仕掛けますが、陥落することはできませんでした。
この時鍾会は司馬昭へ「諸葛緖は蜀の軍勢にビビってしまい、前進をやめてしまいました。」と密告し、囚人護送車に乗せて都へと送ってしまいます。こうして鍾会は諸葛緖の軍勢を手に入れることになるのです。この時点で鍾会は蜀を攻略した後、魏に対して独立するつもりがあったのではないのでしょうか。でなければ諸葛緖の軍勢を奪う意味があんまりないように思えるのは、レンだけでしょうか。
魏のイケメン武将・鍾会の反乱理由その3:鄧艾を排除したこと
魏のイケメン武将・鍾会の反乱理由3としては同僚であり、蜀討伐の立役者であった名将・鄧艾(とうがい)を排除したことであるとレンは推測を立てました。鍾会は鄧艾を排除した時点で魏に対して反乱を起こして、益州で独立しようとしていたのではないのでしょうか。
では鍾会はどのような理由を付けて鄧艾を排除したのかご紹介しましょう。鍾会は蜀を滅ぼした後、司馬昭から司徒(しと)の位・侯の位・そして領土を加増されることになります。こうして鍾会は蜀討伐の立役者の一人に数えられることになります。そんな中、蜀討伐の立役者である鄧艾が専断権を発動して、呉討伐の作戦などを勝手に行っていきます。
このことを知った鍾会は司馬昭へ「鄧艾が専断権を利用して勝手な行動を取っております。鄧艾は魏に反逆を企てている可能性があり、すぐに逮捕するべきです。」と密告。司馬昭は鍾会の意見を採用して鄧艾を逮捕するように命令を下します。こうして鄧艾は逮捕され囚人護送車に乗せられて都へ向かって運ばれることになります。
そして鍾会は鄧艾の軍勢を合わせて益州にいる魏軍をすべて統括することになるのです。鍾会はこうして鄧艾を排除することに成功し、益州に駐屯している魏軍をすべて統括する立場に立つことになります。ここまで来たら鍾会でなくても魏に反逆して独立し、自分の国を建てようと考えても不思議ではないと思います。鍾会は鄧艾を排除した時点で魏に対して反逆する決意をし、新しい国を建国する野望を持っていたと言えるのではないのでしょうか。
三国志ライター黒田レンの独り言
もう一つ鍾会が反乱に踏み切った理由を付け加えるとすれば、それは司馬昭に煽られたからではないかとレンは推測します。司馬昭は鍾会へ「鄧艾はもしかしたら私の命令に背いて都にやってこないかもしれない、そのため今、賈充(かじゅう)に兵士1万を与えて斜谷(やこく)へ向かわせた。
そして私自身も長安(ちょうあん)に10万の軍勢を率いて駐屯するつもりだ。もう少しでそなたの顔を見ることが出来るのですごく楽しみにしている」と手紙を送ります。この手紙を受け取った鍾会は近親者を呼んで「私が反乱を起こすことに司馬昭は気づいたかもしれない。すぐに魏に対して挙兵する準備を整えよ。」と自らの決意を述べたそうです。
この手紙をもらった数日後に鍾会は蜀の大将軍であった姜維と一緒に魏に対して、反乱を起こすことになるのです。鍾会が魏に対して反乱を企てた理由として上記4つがレンの推測なのですが、みなさんは魏のイケメン武将である鍾会が反乱を起こした理由について、どのように考えますか。
ですがここでひとつだけ確実なことを言っておきましょう。それは鍾会が魏に対して反乱を起こした理由を知っているのは・・・・。当事者である鍾会のみが知るということです。
参考 ちくま文芸文庫 正史三国志魏書4 今鷹真・井波律子著など
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