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董卓軍の軍事組織はどうなっていたの?暴君の軍隊をミエルカしたよ

2017年11月5日


 

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kawauso編集長が思うに、世の中は、透明化が大事なのです!

隠しだてや隠蔽は、物事の理解を妨げてしまうからです。

という事で、kawausoは、まだ見えない部分が多い三国志をミエル化宣言します。

今回は、三国志の起爆剤となった董卓(とうたく)軍をミエル化してみました。

 

関連記事:まだ漢王朝で消耗してるの?第1話:改革なき破壊者 董卓

 

監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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董卓軍は、どのような組織になっているのか?

 

漢王朝を実質的に滅ぼしたのは、董卓であると言えるでしょう。

そして、それを可能にしたのは、彼が率いていた精強な涼州や并州の

騎馬兵達だと言っていいでしょう。

董卓の死後、その騎兵たちは、バラバラに中原に散らばり、

群雄割拠、そして、三国志の形成に大きな影響を与えました。

 

 

最も有名なのは、呂布(りょふ)が率いた騎馬軍団で、

次には、長安で好き放題した李傕(りかく)郭汜(かくし)の軍団が有名でしょう。

では、その董卓軍の序列や配属はどうなっていたのかを

kawausoが資料を参考にミエル化します。

 

董卓軍をミエル化、整然とした騎馬軍団と序列

 

というわけで上記が、董卓軍をミエル化した組織図です。

組織の頂点には、もちろん相国になった董卓がいて、

№2は、彼の弟の董旻(とうびん)が左将軍として控えています。

とっても地味な董旻ですが、実際には、董卓が権力を握る上で、

なかなかな貢献をしていて、左将軍の地位を与えられるのは、

単純に身内だからというわけではなさそうです。

 

№3は、董璜(とうこう)と言い、若死にした

董卓の兄董擢(とうえい)の子ですが、

侍中、中軍校尉として軍を掌握していました。

 

まだ漢王朝で消耗してるの?

 

中郎将、騎督、騎都尉、大都護、董卓軍の実働部隊

 

その左将軍、董旻の下には、中郎将、騎督、騎都尉、大都護

というような肩書を持つ、実働部隊が、ずらっと連なります。

段煨(だんわい)は、李傕郭汜祭りにも登場した脳筋ばかりの

李傕・郭汜軍団では、例外的な良識の持ち主で、略奪をしなかった人です。

李傕や郭汜が部曲(私兵団)に過ぎない頃から、中郎将なので、

当然、一定の教養の持ち主だったのでしょう。

 

その隣の牛輔(ぎゅうほ)は、董卓の娘を嫁にもらった男です。

しかし、ただそれだけの人で臆病で猜疑心が強く、董卓が呂布に殺されても、

まともに復讐も出来ずに、殺害を恐れ、逃亡しようとして部下に裏切られ死んでいます。

 

ただ、牛輔の参謀の討捕校尉、賈詡(かく)が牛輔の配下のDQN部曲である、

李傕、郭汜以下をそそのかして長安を陥落させたので、彼らが一大勢力になります。

 

徐栄(じょえい)は、董卓軍きっての用兵家で、曹操(そうそう)

孫堅(そんけん)を撃破した名将ですが、董卓の死後は王允(おういん)に仕え、

襲ってきた李傕、郭汜のDQN軍団を迎え撃ち、味方の裏切りにより敗れ戦死しました。

 

 

李蒙(りもう)は、徐栄と共に行動してましたが、董卓が暗殺されると、

王允・呂布政権ではなく、李傕・郭汜に同調して勝ち組になりますが、

気まぐれで猜疑心の強い、李傕に殺害されています。

 

李粛(りしゅく)は并州の出身で呂布と同郷で親友、呂布を丁原(ていげん)から

寝返らせたのも、李粛ですが、王允・呂布政権の樹立では、侯になった呂布の配下になり、

牛輔を倒すために遠征して失敗し、責任を問われ、呂布に殺害されました。

 

「そんなぁ、俺達友達だろ~」と李粛は思ったでしょうが、

都合が悪ければ、養父さえ殺す、自分に甘く他人に厳しい呂布に

そんな事を言ってもねww

 

呂布は素っ飛ばして、胡軫(こしん)というのは、大都護で呂布と同級の武将。

しかし、腕力を頼みに、横暴な振る舞いが多く、呂布に嫌われて、

孫堅の嘘情報を教えられ、大敗します。

董卓の死後には、呂布と袂を分かち、李傕に味方しました。

没年などは不詳ですが、涼州の出身者のようです。

 

都尉&部曲にいる面々・・・

 

組織図の一番下の丸で囲った面子は董卓が生きていた頃は

部曲(私兵)だったと思われる人々です。

ただ、後漢書、董卓伝では、李傕、郭汜張済(ちょうさい)

校尉に任命されていたとあります。

牛輔や呂布以外の中郎将にも、配下はいたのでしょうが、

記録が無いので不明です。

 

牛輔の校尉だった李傕や郭汜が、呂布と王允政権の打倒に成功して、

献帝を擁して権力をふるったのは、李傕・郭汜祭りで詳しく書いたので、

ここでは述べませんが、一方の呂布の部曲からも、張遼(ちょうりょう)

高順(こうじゅん)など名将が登場しています。

 

三国志ライターkawausoの独り言

 

今回は視点を変えて、董卓軍をミエル化してみました。

他の陣営に比較して、知将が少ない様子が顕著ですが、

高い騎兵の破壊力など、、呉、蜀にも匹敵する強力な組織と言えるでしょう。

 

関連記事:呂布が董卓を裏切らなかったら後漢王朝はどうなった!?

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kawauso

台湾より南、フィリピンよりは北の南の島出身、「はじめての三国志」の創業メンバーで古すぎる株。もう、葉っぱがボロボロなので抜く事は困難。本当は三国志より幕末が好きというのは公然のヒミツ。三国志は正史から入ったので、実は演義を書く方がずっと神経を使う天邪鬼。

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