徐栄(じょえい)とはどんな人?曹操と孫堅を破った董卓軍の隠れた名将

2017年11月10日


 

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董卓(とうたく)の軍勢で最強の武将は誰だと思いますか?

それはもちろん呂布(りょふ)と答える人が多いでしょうが、実はそうではないのです。

個人の武勇としては呂布が最強でしょうが、董卓軍には、孫堅(そんけん)

曹操(そうそう)を撃破した名将が存在していました。

その名を徐栄(じょえい)と言います。

 

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監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。戦略設計から実行までの知見を得るためにBtoBプラットフォーム会社、SEOコンサルティング会社にてWEBディレクターとして従事。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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幽州玄菟郡出身で、公孫度の親友、徐栄

 

徐栄は幽州の出身です、親友には、遼東公孫氏の建国の祖である

公孫度(こうそんど)がいます。

この徐栄は、董卓が洛陽で権力を掌握した頃に仕官して中郎将に抜擢されます。

中郎将は比秩二千石で、600石の中郎を統括する宮殿の門の守備隊長で、

いかに、董卓が破格の人事を好んだとしても素浪人風情が、

いきなり抜擢されるような役職ではありません。

 

恐らくですが、それ以前から、徐栄は幽州の地方役人であり、

何らかの理由で辞めて、再起を図って董卓に仕官したのではないかと思います。

 

こうして中郎将になった徐栄ですが、その頃友達の公孫度は

冀州刺史になったものの、悪い噂を立てられてクビになり途方に暮れていました。

それを知った徐栄は、公孫度を董卓に推挙して遼東太守に任命させます。

遼東公孫氏は、徐栄のアシストで建国したものとも言えるのです。

 

 



董卓軍を率いて、曹操、そして孫堅を撃破

 

西暦190年、反董卓連合軍が挙兵すると、

徐栄は同僚の中郎将、李蒙(りもう)と共に董卓の命で豫州へ出撃しました。

そして、徐栄は滎陽県汴水で曹操(そうそう)&鮑信(ほうしん)軍と遭遇し

これを撃破、将軍の衛茲(えいじ)と鮑韜(ほうとう)を討ち取って大勝します。

 

この戦いで曹操軍は全滅してしまい、曹操も矢傷を受け、乗馬も傷を負い

絶体絶命、この時、曹洪(そうこう)が自分の馬を曹操に与え逃がしたのは有名です。

しかし、曹操は獅子奮迅の働きをし、死に物狂いで戦ったので、

徐栄は、「反董卓軍は、これほど強いのか、、体勢を立て直さねば」と決心、

曹操を追撃しないで逃がしてしまったのです。

 

これだけ見ると、徐栄が間抜けなようですが、それは違います。

実は、この頃の曹操は黄巾討伐の手柄があるだけのぺーぺー群雄で、

徐栄は大損害を受けてまで、討ち取る必要がある相手ではなかったのです。

 

まだ漢王朝で消耗してるの?

 

 

翌年には、喧嘩最強の孫堅まで撃破

 

また翌年の191年には、梁県で反董卓連合軍の孫堅(そんけん)軍と遭遇します。

孫堅は、黄巾賊の反乱の前から、何度も戦っている歴戦の猛将で、

反董卓軍では随一の名将でしたが、徐栄はこれを撃ち破ります。

そして、反董卓連合に参加していた潁川太守の李旻(りびん)を生け捕って

煮殺す戦果をあげたのです。

 

この後、孫堅は袁術(えんじゅつ)の援助で巻き返し、陽人で呂布胡軫(こしん)の

連合軍を撃破、都尉の華雄(かゆう)を捕えて縛り首にして董卓を恐れされ、

長安遷都の切っ掛けを造り出しています。

 

呂布を破った(もっとも、呂布は胡軫が嫌いで陥れようとしており、

孫堅相手に本気で戦ってはいませんが、、)孫堅を徐栄は撃破しているので

董卓軍では、最強と言っても間違いではないでしょう。

 

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寂しい最後、味方に裏切られ李傕・郭汜軍の前に戦死

 

192年、董卓が王允と結託した呂布の手で暗殺されると、

徐栄は、そのまま王允(おういん)に仕えます。

この変わり身を考えると、徐栄は董卓に仕えているのではなく、

天子に仕えている漢の将軍という認識が強かったのかもしれません。

 

やがて、董卓の残党である李傕(りかく)郭汜(かくし)が殺られる前に殺れと

五万の軍を率いて長安に迫ると、王允は、胡軫と楊定(ようてい)を呼び出して、

「関東の鼠風情が何を身の程知らずな、お前達、行って説得して来い!」と

横柄な態度で命じて派遣しました。

 

元々、胡軫と楊定は王允と仲が悪かったので、この一言で態度を豹変、

徐栄と共に、軍勢を率いて出撃するも、途中で李傕軍に寝返ります。

かくして、孤立した徐栄は、奮戦も空しく新豊で敗れ戦死してしまったのです。

 

 

三国志ライターkawausoの独り言

 

徐栄は、個人の武勇より、用兵に巧だったのかもしれません。

だから、味方の謀反が起きると、呂布のように個人の武勇で

死地を切り抜けられず、戦死する憂き目を見たのでしょう。

また、あくまでも天子の軍人であろうとして、時勢が見えず

生き残るチャンスを逃した雰囲気も感じてしまいます。

 

もう少し時勢を観る目があれば、李傕・郭汜に呼応して、

上手く世渡り出来たかもですが・・それでも猜疑心が強く、

また、元の上司筋で煙たい徐栄を李傕は気に入らず理由をつけて

殺したかも知れませんね。

 

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台湾より南、フィリピンよりは北の南の島出身、「はじめての三国志」の創業メンバーで古すぎる株。もう、葉っぱがボロボロなので抜く事は困難。本当は三国志より幕末が好きというのは公然のヒミツ。三国志は正史から入ったので、実は演義を書く方がずっと神経を使う天邪鬼。

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