世に水魚の交わりと言われ、お互いがいないと生きてはいけない程の
親密さを謳われた劉備と諸葛孔明、私達は先入観でつい二人の人生にも
似たような部分を見出してしまいますが、実は二人は故郷については、
まるで正反対の道を歩んでいました。
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若き日に故郷を捨てた劉備
劉備は幽州の生まれですが、若い頃に故郷を捨ててしまいました。
生家は豪族と言えど没落し貧乏でしたが、同族の劉元起の援助で
同郷の大学者の盧植の門下生として学ぶというキャンパスライフを送ります。
しかし、劉備は勉強には身を入れず、衣服を飾り立てて音楽と乗馬、
ドッグレースなどに熱中するようになります。
同族とはいえ親戚の金でこんな事をしているのが、いかにもボンクラ学生ですが
実は、ドッグレース場や音楽会場は地元の名士や任侠の徒が出入りする場所でした。
つまり劉備はただ遊んでいたのではなく、土地の有力者と交わり
自分の顔を売っていたのです。
それは裏を返せば援助してもらっている劉元起のバックアップなど
取るに足りないと劉備が考えていたという事です。
まもなく中山の大商人、蘇双と張世平の知遇を得るや資金を援助してもらい
傭兵団を組織して校尉鄒靖の黄巾賊討伐に従軍して幽州を離れ青州に向かいます。
その点について史書に劉備が名残を惜しがったとか、功名を立てて、
いつか故郷に錦を飾るとかありがちな立志伝は一つもありません。
或いは劉備は故郷が嫌いで捨てたかったのかも知れません。
故郷に愛着を持ち続けた孔明
逆に孔明にとっての故郷、徐州琅邪郡陽都は生涯思い続けた場所でした。
その理由は幼少の頃に曹操の徐州大虐殺に遭遇して故郷を追われたからです。
父母を幼いころに失い、従父の諸葛玄と共に苦しい流浪生活を経た孔明にとり
穏やかな少年期を送れた琅邪郡陽都の暮らしは理想郷にも思えたでしょう。
また、琅邪郡陽都というのは春秋戦国戦国時代の覇者の一つ斉国に属し
非常に学問が栄えたという土地でもありました。
孔明も無名時代には、梁父吟を好んで口ずさみ、斉の三人の勇士を、
宰相の晏嬰が桃二つで知略を用いて殺したという内容を讃えていました。
また、学友達と自分を誰に準えるかという話が出た時には、、
斉の名宰相の管仲と、斉を滅亡寸前に追い込んだ燕の楽毅を挙げるなど
常に琅邪郡陽都を忘れていないチョイスをしています。
それに孔明の交際が魯粛や諸葛瑾など故郷徐州の人々に多いのも見逃せません。
特に魯粛は孔明と初対面の時に「諸葛瑾とは昔からの友人です」とPRし
すぐに孔明とも交友を結んでいます。
同じく徐州出身でも、麋竺や麋芳との間の逸話がない
(地位が違いすぎて会話にならないだけかも知れませんが・・)孔明は
魯粛との間には親密な関係を築いたのは、同じ徐州でも兄の友人であり、
故郷、琅邪郡陽都の香りがしたからかも知れません。
孫呉の厳畯も諸葛瑾や魯粛と交友があり、孫権の皇帝即位の時に
使者として蜀に赴きますが孔明は立派な使者であったと褒めています。
ここも、どうも琅邪郡陽都繋がりを感じるのですが、、
【北伐の真実に迫る】
推測、劉備は同族に不義理をしたのではないか?
一方の劉備は、その人生で幽州繋がりの人脈を余り見出せません。
張飛は幽州人ですが、それ以外は公孫サン、盧植とあまり縁が深いとは
言えないレベルです。
元々、幽州人は面倒見の良い人々なのにどうして劉備には、
故郷のニオイが一切しないのでしょうか?
ちょっと気になるのは、劉備が公孫サンの配下として袁紹を防いだ手柄で
平原相を任された時に、郡民の劉平という男が劉備の下になる事を嫌がり
刺客を雇って殺そうとしたという件が正史にある事です。
劉平という名前と刺客を雇う程度に財力がある事を考えると、
同族のような感じがしますが、劉備が自分の上の地位になった程度で
殺そうと刺客を放つでしょうか?
ここからは推測ですが、この劉平の記述より前、西暦188年の張純の乱の時、
同じ平原の劉子平という人が劉備には武勇があるからと推挙して、
劉備と一緒に戦ったという記述が典略にあります。
ところがこの時に劉備は戦場で負傷し、死んだ兵士の中に隠れて
戦をやり過ごし、味方の救援部隊に拾われて生還しました。
もしかして、この時、劉備は劉平のピンチを見捨て死んだふりをし
自分だけ助かってしまった事を劉平と同族の劉子平に
知られてしまったのではないでしょうか?
「同族を見殺しておいて平原の相とはふざけおって、貴様など殺してやる」
こうして激怒して刺客を放ったとすれば、劉備に殺意を持つのも頷けます。
なんとか刺客を丸め込んだ劉備ですが、この不義理が幽州の劉氏にも伝わり
劉備は故郷出禁になり、帰れなくなったのではないでしょうか?
劉備と孔明は故郷捨てた派と故郷憧れ派のコンビ
こうしてみると劉備と孔明は、片や出禁まで喰らった故郷捨てた派と
ひたすら故郷に憧憬を持ち続けた派の正反対コンビだと言えます。
まあ、二人とも理由は正反対ながら故郷を頼れない立場は同じであり
それが、任侠集団の劉備軍で二人が結びつく切っ掛けになったのでしょう。
三国志ライターkawausoの独り言
妻子であっても平気で捨てる劉備ですから義兄弟の契りを結んだわけでもない
同族の男くらいは、生き残る為には平気で切り捨ててしまいそうです。
それが劉子平に知られ、同族を見捨てた咎で幽州出禁になったというのが
劉備が故郷を捨てざるを得なかった理由だとしたら面白いんですけどね。
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