狂児・魯粛は三国史隋一の外交官だった理由


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孔明と魯粛

 

演義では温厚でお人よしな性格が災いし諸葛亮(しょかつりょう)にあしらわれ、周瑜(しゅうゆ)には「外交の才能がない」とけなされる、損な役回りを演じている魯粛(ろしゅく)

 

魯粛

 

しかし正史を紐解くと、長期的展望力を持つ天才肌の外交官であり、稀代の豪傑・関羽(かんう)に一歩も引かない胆力を併せ持つ、三国きっての名将だったことがわかります。

 

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魯粛が立身出世した秘訣は発想力にあり!

魯粛

 

魯粛の実家は地元である、徐州(じょしゅう)・東城地方きっての大金持ちでしたが、その一方で官職的名声はまったくない、言ってみれば田舎の大地主にすぎません。

 

今なら豊富な資金力をバックに、市議・県議を経て国政へ進出!なんて野心も抱けますが、この時代は高官に賄賂を握らせ、下っ端役人に収まるのが関の山。事実、袁紹(えんしょう)曹操(そうそう)などの群雄にしろその重臣の面々や、後に魯粛を見出す周瑜にしろ、そのほとんどが長く政治に関わってきた名家出身です。

 

魯粛と周瑜

 

一方、魯粛が私財をばらまいたのは生活に困っている一般人、時には田畑を売ってまで彼らを援助したため、地元では大人気でした。

 

また「呉書」によると、魯粛の体躯(たいく)は立派で若いころから高い志を持ち、いよいよ乱世が深まると撃剣(げきけん)騎射(きしゃ)を学び、密かに私兵を募っては山にこもり、武術の講義や軍勢の調練を行ったのだとか。

 

家業を顧みない若き日の魯粛に対して長老たちは、

「とうとう魯家から、頭のおかしい奴が生まれた。」

と揶揄したほどでしたが、彼の眼は乱世をにらんでいたのです。

 

その後、魯粛を慕って集まる若者はどんどん増え、当時徐州を支配していた袁術からお呼びがかかり地元東城の県庁に抜擢、晴れて政界デビューを果たすことになります。

 

小手先の賄賂に頼るのではなく、人心をつかんだうえで力を蓄え、乱世で悪戦苦闘する群雄に請われて出仕するという先見の明、当時の価値観を根底から覆す発想力こそ、魯粛が持っていた才能といえます。

 


 

もしかして未来人?魯粛の描いていた未来予想図

魯粛、周瑜、袁術

 

袁術に士官はしたものの、そのハチャメチャな行動に見切りをつけ、当時諸事情により袁術の元で居巣県の長をやっていた、周瑜の知遇を得たことにより、以後孫権(そんけん)に仕えることになります。

 

魯粛と周瑜

 

孫権は非常に魯粛を買っており、不遜な態度を咎め非難する張昭(ちょうしょう
)
をシカト、益々魯粛を厚遇し、母親にもぜいたくな暮らしができる金品を与えたのだそう。

 

魯粛、孫権、張昭

 

孫権がそれほどまでに魯粛を評価していたのは、彼の頭の中で描かれている呉の覇業論が、張昭などの老臣の凝り固まった頭脳では思いつきようもない、壮大かつ斬新極まりないものだったからです。

 

魯粛は孫権に常日頃から、漢王朝再興が不可能に近いことを前提した上で、

 

  1. 江東(こうとう)の地を堅持して時期を待つ
  2. 曹操が北方処理に手間取るうちに長江流域を制圧する
  3. 上記を達成したうえで孫権が皇帝になり覇業を推し進める

 

と主張・説いていたのです。

 

挑発する諸葛亮孔明

 

 

諸葛亮の「天下三分の計」の受け売りというなかれ、魯粛の覇業論が孫権に伝わったのは、初めての謁見となる200年前後。

 

天下三分の計

 

つまり、劉備に諸葛亮が天下三分の計を伝える6~7年前の段階で、すでに彼の頭には呉が進むべき、未来予想図が出来上がっていたのです。

 

スマホをいじる孔明

 

歴史を知り、GPSやパソコンなどを駆使できる現代ならともかく、書状やのろしぐらいしか通信手段がない時代に、ここまでの構想を練っていたとは…、

もしかしたら魯粛は未来からやってきたのか?とさえ思ってしまいます。

 

袁術のトホホな逸話
袁術祭り


 

ハッキリ言って魯粛の外交はハチャメチャ…常人はマネしないで!

魯粛

 

とはいえ魯粛もやっぱり人の子、呉が覇業を進める上で最大・最強のライバル、曹操の北方を制圧するスピードが超人的に速かった。長江流域を制覇するどころか、江夏すら平定していなかった呉をしり目に、チャッチャと北方を平らげて208年7月、満を持して大軍を率い南下を始めたのです。

 

曹操から逃げ回る劉備

 

ここからが外交官・魯粛の真骨頂、直前に死去した劉表の弔問に訪れていた彼は、江夏へ逃走中だった劉備を追い面会、ここで一世一代の大嘘をつくことになります。

 

「主君孫権が貴君と同盟し、宿敵曹操南進に対峙したいと申しております。」と。実は、孫権が了承し魯粛に任せていたのは荊州勢力との連合であり、逃げ惑う劉備との同盟申し込みなんて、この時一切了承していなかった。

 

しかし、いざ荊州に来てみるとすでに魏軍の攻撃でガタガタ、そこで次に魯粛が打った手が、独断による劉備への同盟要請だったのです。

 

魯粛

 

やはり魯粛は狂児、いかに劉備・諸葛亮と意気投合したとはいえ、ネジが何本かぶっ飛んでるともいえるこの外交官としての決断が、結果的に赤壁の大勝に繋がり、呉建国の基礎となったのは事実です。

 

魯粛、周瑜、劉備

 

赤壁後も親劉備派として散々呉を引っ掻き回した魯粛ですが、周瑜の死後軍を統括する立場に座ると、劉備軍へ毅然とした態度で対峙し、関羽に桂陽と長沙二郡を無血で割譲させるなど、演義からは想像できない豪胆ぶりも発揮しました。

 

魯粛、孫権、孔明

 

217年に魯粛は46歳の若さでこの世を去りますが、孫権は周りも憚らず慟哭(どうこく)し、諸葛亮も敵国の臣でありながら、個人的に喪に服したといいます。


  

 

 

三国志ライター 酒仙タヌキの独り言

酒仙タヌキ 三国志ライター free

 

天才的な発想力と諸葛亮をも凌ぐほどの先見の明、そして何より破天荒な外交手腕が魅力の魯粛。

 

呉の孫権は皇帝

 

彼の死から12年が経過した229年、呉の初代皇帝に孫権が即位した際、「魯粛はこのことを初めて会った時から予見していた。」と、改めてその見識の広さと正確さに敬意を称したそうです。

 

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