同じ主君に仕える武将同士は志を同じくするということで仲が良いものだと思われがちですが、実際はそうでもありません。功を争うライバルとして敵対心を燃やしたり、主君からの待遇の差に嫉妬したり、大したことのない奴だと見下したり…。まぁ、あれです。
一見爽やかそうに見える野球部やサッカー部の男たちが水面下で女顔負けのドロドロした感情を交錯させているようなものです。『三国志』にもそのような男同士の争いがチラホラ描かれていますよね。
蜀の関羽と張飛が諸葛亮に嫉妬したり、魏の楽進・張遼・于禁がいがみ合ったり…。実は呉にも「多分仲悪いよね、この人たち」という2人がいます。それは徐盛と周泰です。今回は、徐盛と周泰の微妙な関係についてご紹介したいと思います。
似たもの同士の2人
徐盛は若いころから勇猛果敢な人物として知られ、その武勇伝は数知れず、周瑜や魯粛と比べると目立たないものの数々の武功を立ててきました。
一方、周泰の方も並大抵ではない勇気を持つ人物として知られ、体の12か所に傷を負いながらも孫権を守り切ったということで名を馳せています。両者は並々ならぬ勇気の持ち主として知られている点で似たもの同士の存在だったようです。ところが、似たもの同士だからこそバチバチと火花を散らすこともあったのだとか…。
徐盛、周泰を軽んじる
徐盛と周泰がバチバチと火花を散らすエピソードは正史『三国志』周泰伝に見えます。
曹操が濡須口に攻めてきた頃、徐盛は周泰の指揮下に入っていました。ところが、徐盛は周泰を完全に侮っており、周泰の言うことを聞こうとしませんでした。それどころか、他の将たちも周泰を軽んじる始末。周泰は徐盛とは異なり目立った活躍をしていなかったため、「なぜ自分が周泰の指揮下に入らなければならないのか」と多くの将の不満を集めてしまったのです。
多くの将が周泰の指示に従わないという話を聞いた孫権は徐盛をはじめとする諸将を集めて宴席を設けました。そして、周泰に服を脱ぐように指示したのです。目を丸くする諸将たち。
なぜならその体には孫権を守るためにできた多くの生々しい傷跡が残っていたのですから。孫権は周泰にそれぞれの傷ができた所以を語らせ、「私が今生きているのは、周泰のおかげだ」と涙を流しながら言いました。
この出来事があってから徐盛も周泰を認めるようになり、周泰の指示に従うようになったのです。それにしても、主君が配下のいざこざを解決すべくわざわざ宴席を開くなんて珍しいことなのではないでしょうか。
曹操軍を追い払うには一致団結する必要があると考えて一肌脱いだということも当然考えられますが、孫権にとって周泰の存在が大きいものだったということも大いに関係しているのでしょう。
周泰、徐盛を叱り飛ばす
正史では徐盛が周泰に噛みついていましたが、『三国志演義』ではまた違った関係性が築かれています。
『三国志演義』においては、周泰は完全に徐盛の上司のような存在で、徐盛が周泰に噛みつく様子は描かれていません。むしろ、徐盛は劉備を呉に抑留する命を受けていたのにもかかわらず孫夫人に一喝されて尻尾を巻いたことについて周泰から叱り飛ばされてしまっています。
周泰に助けられる徐盛
周泰は徐盛を叱責していましたが、徐盛のことを嫌いだったというわけではないようです。なぜなら、徐盛がピンチに陥ったときに助けてくれたのもまた周泰だったからです。
『三国志演義』に描かれている濡須口の戦いで、徐盛は孫権とともに敵に取り囲まれてしまいます。しかし、そこに周泰が現れて傷だらけになりながらも孫権と徐盛の2人を助けたのです。
もしかしたら周泰が徐盛を救ったのは孫権のついででしかなかったのかもしれませんが、単純に徐盛のことが嫌いだったら見放していたと思われますし、周泰にとって徐盛はそれなりに大切な将であったと考えるのが自然でしょう。
三国志ライターchopsticksの独り言
互いに勇気のある人物だと称えられていた徐盛と周泰ですが、正史『三国志』でも『三国志演義』でも互いに憎みあっていたわけではなさそうです。
むしろ、お互いのことをよく知るようになってからは心を開き合うことができる関係になっていたのではないでしょうか。『三国志』における他の武将同士の関係性についても深く調べてみると面白いかもしれませんね。
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