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何儀とはどんな人?黄巾の残党軍を率いて各地で暴れまわった黄巾賊

2019年6月26日


 

暴れる黄巾党と張角

 

後漢王朝(ごかんおうちょう)を崩壊に導いた黄巾の乱(こうきんのらん)

 

張角逝く

 

黄巾の乱は教祖・張角(ちょうかく)が亡くなった事で求心力を失い、張角の兄弟・張宝(ちょうほう
)
張梁(ちょうりょう
)
が討ち取られると壊滅してしまいます。しかし黄巾の乱は終息しますが、黄巾賊は中国各地で暴れまわって民衆を困らせていました。

 

何儀(かぎ)

 

今回は黄巾賊の残党を率いて各地を暴れまわった何儀(かぎ)について紹介したいと思います。

 

自称・皇帝
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監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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黄巾の残党軍を率いて暴れまわる何儀

張角は歴史の表舞台に登場

 

何儀は張角の思想に賛同して黄巾の乱に参加。彼は黄巾の兵士達を率いて後漢王朝の軍勢と戦いを繰り広げますが、黄巾軍が朝廷に敗北してしまった為、逃亡します。その後何儀は黄巾の乱で一緒に戦っていた劉辟(りゅうへき
)
黄邵(こうしょう
)
らと手を組んで、汝南(じょなん)潁川えいせん)で民衆から略奪や強奪などやりたい放題に暴れまわっていました。

 

黄巾賊

 

しかし彼らは計画も無しにただ民衆たちから食料を奪って暴れまわっていた事と兵士を数万も率いていたため食料が無くなってしまいます。そのため彼らは大勢力を築いている群雄の元へ身を寄せることにします。

 

 

 

袁術の元に身を寄せる何儀

袁術

 

何儀たちは後漢王朝きっての名門・袁術(えんじゅつ)の元へ身を寄せます。袁術は彼らを受け入れ、味方に引き込むことに成功。

 

袁術

 

しかし何儀たちは袁術の元に数ヶ月居ただけで、離れてしまいます。その理由は正史三国志(せいしさんごくし)等の資料に記載が無いため、推測になってしまうのですが、袁術が兵糧を供給してくれなかったからだと思われます。

 

袁術、孫堅(犬)

 

袁術は董卓(とうたく)討伐戦が行われた時、味方であった孫堅(そんけん)に兵糧を供給することを怠り、孫堅からめちゃくちゃ怒られていました。袁術は孫堅にすら兵糧を供給するのを怠っていたのに、黄巾賊の残党軍に兵糧を常時供給していたと考えにくいと思われます。

 

袁術

 

何儀らは袁術が兵糧供給を全然行わなかった、もしくはあまり兵糧を供給してくれなかったため、違う群雄の元へ向かうことになります。

 

 

江東の虎・孫堅に身を寄せる何儀

呉の孫堅

 

何儀らは黄巾賊軍を率いて董卓討伐戦で苛烈な戦を見せつけた孫堅の元へ。何儀らは孫堅に受け入れられたことで、大きな勢力を味方につけることに成功。

 

孫堅

 

こうして何儀らは兵糧を安定的に供給してくれる大きな勢力・孫堅を味方につけますが、三国志で一番有名なあの人物の軍勢と戦うことになってしまいます。

何儀らと戦った有名な人物とはいったい誰なのでしょう。

   

 

曹操軍の攻撃を受けて降伏

曹操

 

曹操(そうそう)は黄巾の残党軍を率いて汝南・潁川で暴れまわっている何儀らの存在を知って、彼らを討伐するため出陣します。何儀らは曹操軍がやってくることを知ると各々兵を率いて、曹操軍を打ち破るため出陣。

 

黄巾賊を率いて暴れまわる何儀(かぎ)

 

曹操は何儀ら黄巾賊軍と遭遇し闘うことになりますが、簡単に撃破することに成功し、劉辟(りゅうへき
)
黄邵(こうしょう
)
らを討ち取ります。何儀は曹操軍の激しい攻撃を受けて、劉辟らが討ち取られる前に降伏。

 

曹操が黄巾党が仲間に!

 

こうして曹操軍は簡単に黄巾残党軍を打ち破って、汝南と潁川地方に平穏を取り戻すことに成功するのでした。

 

三国志ライター黒田レンの独り言

三国志ライター黒田レン

 

正史三国志の何儀は黄巾賊を率いて各地を暴れまわった人物ですが、三国志演義ですとちょっと違った描き方をされています。三国志演義(さんごくしえんぎ)の何儀は曹操軍に打ち破られた後、逃亡しますが、自警団を率いていた許褚に捕まってしまいます。

 

悪来と呼ばれた典韋

 

許褚は何儀を砦に連行します。典韋(てんい)は曹操に命じられて何儀を追っていましたが、許褚(きょちょ)が何儀を砦に連行したことを知り、許褚が何儀をかくまったと勘違いして、許褚と一騎打ちを開始。

 

許チョ(許褚)

 

この二人の一騎打ちは決着がつきませんでしたが、許褚は典韋との一騎打ちの後、曹操へ帰順します。何儀は許褚が曹操の配下になったため、曹操の元に突き出され処断されてしまいます。

 

晋蜀の産まれ 陳寿

 

このように何儀は正史三国志・三国志演義ともにあまりぱっとしない人物ですが、陳寿(ちんじゅ)羅貫中(らかんちゅう)はこういった脇役にもスポットライトを当てている所にちょっと優しさを感じてしまうのはレンだけでしょうか。

 

■参考文献 正史三国志魏書など

 

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黄巾賊

 

 

 

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