劉備の子どもを敵陣から救出したと言われる趙雲の一騎掛駆け。具体的には、どんな状況だったのでしょうか。
そして、劉備は自らの子どもを置いていかなければならないほど切羽詰まっていたのでしょうか。
三国志演義をベースに趙雲の一騎駆けにフォーカスしていきます。
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劉備と趙雲の出会い
西暦200年。劉備は徐州で曹操に敗れると袁紹の元に身を寄せます。
趙雲は邺城(現在の河北省臨漳県辺り)で劉備に会い、同じ部屋で眠ります。そこで劉備はこっそりと趙雲に数百人ほど兵を集めるように指示。
趙雲は左将軍の部下と名乗り、兵を募集します。袁紹はそんなことを全く知りませんでした。ほどなく劉備は「汝南」で曹操を襲撃しますが、くしくも失敗。
その後、趙雲は劉備の仲間になり、荊州にいる親戚の「劉表」の元を訪ねることとなるのです。
やがて劉備は劉表に屈し、「新野」に駐屯します。曹操は夏侯惇と于禁を派遣し、劉備を討伐しようと思案します。当時、お互いに警戒し合っていたため、劉備は待ち伏せして曹操軍を撃破。
そのとき趙雲は「夏侯蘭」を生け捕りにします。実は趙雲と夏侯蘭は同郷で小さい頃から知っている仲だったのです。趙雲は劉備に事情を話し、夏侯蘭の命を救うことに成功。劉備は法に照らし、夏侯蘭に「軍正」の位を与えます。
曹操が荊州へ進軍
西暦208年。劉備にやられて黙っている曹操ではありません。荊州に向けて進軍を開始します。
劉表とその次男の劉琮は南下してきた曹操軍に白旗を上げます。樊城でその悪いニュースを耳にした劉備は戦うことなく逃げます。いわゆる三十六計です。劉表がやられたと知って勝ち目がないと察したのでしょう。
途中の「襄陽」まで来ると劉備を慕った町の農民10万人が劉備に尽き従います。移動速度は牛並みに遅く、ついに曹純率いる「虎豹騎」部隊が放たれるのです。休まず追いかける虎豹騎。
「当陽長阪」でやすやすと劉備に追いつきます。おどおどしていた劉備は慌てていたので妻と子どもたちを残し、張飛、諸葛亮孔明、趙雲ら数十騎ほどで逃げます。しかし、趙雲の姿が途中で見当たらなくなります。
そばにいた人に訊くと
「北の曹操のところに行ったみたいよ」と返答。劉備は戟を手に「趙雲は必ず我々の元に帰ってくる!」と言ったそうです。
ほどなく趙雲は子どもの「劉禅」と劉備の妻である「甘夫人」を抱えて劉備の元に帰ってきます。劉禅はのちのち劉備の後を継ぐ子どもだから曹操の手に渡してはなるまいと思ったのでしょう。これが世にいう「趙雲の一騎駆け」です。
後に趙雲は「牙門将軍」にグレードアップします。
曹操お抱えの虎豹騎とは?
劉備追撃のために曹操が放った「虎豹騎」部隊。初めて耳にした読者もいるかもしれません。実は魏におけるエリート部隊だったのです。
「虎豹騎」のトップは代々曹家が就任。例えば曹純や曹休、曹真などです。曹操が最も信頼を置いていたのが虎豹騎のトップ。劉備追撃に虎豹騎を使った曹操の執念が読み取れます。
虎豹騎は中央軍、地方軍、屯田軍の3つに分かれ、地方軍が州や郡を防衛。屯田軍は国境付近に配備されました。中央軍は内と外の2つに分かれ、外は曹操が直接、指揮を執っていました。
内は中軍と呼ばれ、親衛隊としての役割があり、曹操直属の部隊が指揮。数は10万人ほどいました。宮殿に常駐し、曹操の親戚が代々トップを務めていたのです。こんなエリート部隊に追いかけられたら劉備もたまったものではありません。
数名の部下を連れて逃げるのも無理はないでしょう。
三国志ライター 上海くじらの独り言
趙雲の一騎駆けは曹操の放った虎豹騎がきっかけで生まれました。曹操一族のエリート部隊を巧みにかわし、劉禅と甘夫人を救った趙雲の偉大さが分かります。いわばソ連時代のスペツナズから女性と子どもを救うようなもの。
肝が据わっていないとできない芸当です。劉備や劉禅が趙雲を大切にした理由が推し量れます。
参考文献:「三国演義(中国語版)」羅貫中、「交通旅遊中国地図冊(中国語版)」湖南地図出版社
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