蜀(221年~263年)の炎興元年(263年)に蜀は魏(220年~265年)に降伏しました。しかし翌年、魏の咸熙元年(264年)に蜀の遺臣の姜維と魏の武将の鍾会は成都で謀反を起こします。
だが、姜維も鍾会もすぐに討たれて謀反は鎮圧されました。今回は正史『三国志』から姜維と鍾会の謀反について解説します。
※記事中の歴史上の人物のセリフは、現代の人に分かりやすく翻訳しています。
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鍾会 姜維LOVE!
姜維は降伏した時から鍾会と親睦を深めました。姜維は鍾会と初めて会った時に遅刻してきたので、そこを鍾会に問われると姜維は「今日ここで会ったのが早すぎたくらいです」と返答します。
言われた鍾会は「姜維、スゲー」と感動しました。ただの遅刻の言い訳の話に、何がスゴイのか分かりません・・・・・・現代社会でこんな返答したら、ただではすまされないでしょうが、これ以上ツッコミを入れても始まらないので続けます。鍾会は姜維の持ち物である印鑑・旗・馬車もみんな返還して、外出の時も一緒に馬車で出かけたり、座る時も同じ敷物を使っていました。
さらに、すでに亡くなっている諸葛誕や夏侯玄が姜維の才能には及ばないと評価します。「お前、どんだけ姜維が好きなんだ!」とツッコミたくなります。
姜維の気持ちと鍾会接近の理由
一方、姜維は鍾会のことをどう思っていたのでしょうか?
実は姜維は蜀復興のために鍾会に接近していただけです。
最初に会った時点で鍾会に謀反の意思があると見抜いた姜維は、彼を利用価値のある人間として仲良くし始めたそうです。要するに鍾会は姜維のカモ。1度会っただけで、なんでその人の意思が分かるかツッコミも入れたいですが記事の内容と関係無いのでやめておきます。
さて、姜維にとって鍾会は利用価値のある人間と前述しましたが、それを筆者なりに考えてみました。それは鍾会が豫州潁川郡出身だからです。鍾会の本籍地である豫州潁川郡は数多くの名士(知識人)を輩出した土地として知られています。
どんな人物がいたかというと以下の通り。
鍾会の父の鍾繇も豫州潁川郡の名士であり、曹操政権では重職に就いていました。また荀彧・荀攸・陳羣・鍾繇は親戚関係であり、特に荀氏と鍾氏は幾代にも渡り婚姻関係を有する間です。
姜維は鍾会の「豫州潁川郡」出身というブランドに目をつけて仲良くしたのでしょう。人間はブランドに弱い生き物です。「××大学名誉教授」・「××優勝」という肩書さえもっていれば、人は勝手にペコペコします。
「あの豫州潁川郡の鍾会さんが謀反を応援しているのですか!」
「俺たちも絶対に応援します」
謀反が上手くいっていれば、こんな感じでした・・・・・・
部下に裏切られた鍾会
結末は序文で書いた通り、この謀反は失敗しています。なぜ謀反は失敗したのでしょうか?
鍾会は反乱を決心すると同調しない部下の胡烈や将兵を幽閉します。この時、鍾会の側近に丘建(きゅうけん)という将軍がいました。かつて胡烈の推薦で仕官した人物です。
恩人の胡烈を助けるために丘建は自分の部下に食事を差し入れをさせて情報提供を行います。胡烈も面会に来た自分の部下に「下っ端の兵士は皆殺しにされる予定だ!」デマを流しました。デマに踊らされた下っ端兵士は丘建と一緒に姜維と鍾会を襲撃して殺害。こうして姜維と鍾会の謀反は、あっけなく終わります。
三国志ライター 晃の独り言
以上が姜維と鍾会の謀反についての話です。鍾会は豫州潁川郡の名士であるにも関わらず、その立場を発揮することもなく、部下を幽閉した結果、人望を失って殺されることになりました。
鍾会は昔から勉強は出来るのですが、「何でも俺は出来る」という自信過剰な性格が玉にキズでした。無双シリーズで有名な王元姫も「鍾会は自分の利益しか考えない。重用すれば国が乱れる」と言っています。
こんな人をヨイショした姜維も人を見る目に欠けていましたね・・・・・・
余談ですが鍾会の親戚である荀勗は、正史『三国志』の著者陳寿のパトロンの1人です。
※参考
・田中靖彦「陳寿の処世と『三国志』」(初出2011年 のちに『中国知識人の三国志像』 研文出版 2015年所収)
・津田資久「史料としての三国志」(『歴史評論』769 2014年)
・渡邉義浩「三国時代における「文学」の政治的宣揚:六朝貴族制形成しの視点から」(『東洋史研究』54-3 1995年)
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