わずか二代で滅亡した蜀。原因は黄皓が劉禅に告げた占い結果でした。
日本人も神社でおみくじを引いて一喜一憂しますが、国家滅亡のきっかけが占いだったらショックです。ここでは三国志演義をベースに蜀の滅亡と占いについて探っていきます。
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劉禅が皇太子に
あの劉備を父親に持つ劉禅。劉備が「漢中王」を名乗ると劉禅は皇太子となります。皇太子は必ずしも長男がなるわけではなく、孫や次男、親戚のケースもある古代中国。
実力がないと部下がついてこないので、中国では継承順位よりも側近や大臣の陰謀などで皇帝が決まる事が多々あります。しかし、劉備が蜀の初代皇帝ですから、同時に皇帝と皇太子が誕生した形になります。赤ん坊のころに二度も誘拐されるなど波乱万丈の人生を送った皇太子と言えるでしょう。周りに劉備、関羽、張飛、諸葛孔明といった英雄がいながら、彼らが昇天したときにそばにいることはありませんでした。
その点で劉禅は人生を大臣や武将によって大きく左右された人物です。
姜維は北伐、黄皓は朝廷で暗躍
蜀は財政難に陥っていました。その経済基盤を支えるために北伐によって資金を獲得する方法が取られたのです。北伐は諸葛亮孔明のときに始まり、彼が五丈原で星になると姜維が後を継ぎます。朝廷では宦官の「黄皓」が皇帝となった劉禅に取り入り、密かに動きます。
必死に北伐をしていた姜維は、その黄皓と犬猿の仲でした。ところが皇帝の劉禅は黄皓と仲が良く信頼を置いていましたから、黄皓は北伐を理由に姜維を遠ざけることができたのです。朝廷内では黄皓に逆らう大臣はおらず、みな自分の身を案じていました。そのため蜀の朝廷は疲弊し、皇帝を自在に操る黄皓が跋扈していたというのが現状です。
まさに奸臣の代名詞ともいえる黄皓。中国のドラマでもかなりの悪人面で描かれています。
鍾会が兵を集める中、黄皓は占いに没頭
ある日、魏の鍾会が兵を集めているというニュースが皇帝・劉禅の耳に入ります。姜維のすすめによって、劉禅は急いで戦闘の準備をしますが、黄皓はやめるように言います。理由は自分が日頃から信じている占いで魏が攻めてくることはないという結果が出たからです。
当時、中国で占いはそれほど信じられていませんでしたが、中には信じている人もいました。基本的に中国では空想やファンタジーものが流行しないのは、こうした文化が背景にあります。中国人は昔から科学的に観察するのが好きだったのです。
閑話休題。黄皓は単に姜維と仲が悪かったというのもありますが、かなり占いにハマっていたようで必死に皇帝を説得。言葉巧みに諭し、魏が蜀に攻めてくることはないと言い切ります。
熱心な説得で、ついに皇帝・劉禅も折れるのです。しかし、黄皓の情報操作により、蜀の大臣はこうした騒動を知ることはありませんでした。
西暦263年の夏。
占いとは裏腹に魏は鐘会、鄧艾、諸葛緒を派遣。蜀へと進軍を開始します。対する劉禅は張翼、廖化、董厥を向かわせます。
姜維は10万の大軍で包囲するものの、鐘会は一気に南下して成都へと攻め込むのです。合議の末、諸葛瞻を魏軍に当たらせますが、鄭艾の先鋒にやられてしまいます。諸葛瞻は突撃し、綿竹で戦死。劉禅は軍事会議で投降するよう大臣に勧められますが、これを拒否します。
すると兄弟の「劉諶」が妻と子を巻き添えにして無理心中を計るのです。次に大臣らは部下に兵を率いて前衛に赴くよう皇帝に勧めますが、劉禅はこれも拒否。最後は攻めてきた魏の鄧艾に投降します。
三国志ライター上海くじらの独り言
占いの結果を真面目に信じた劉禅にも非はありますが、黄皓を昔から信頼していたので仕方がなかったのかもしれません。もしかしたら、黄皓の占いは口実で単に嫌いだった姜維を困らせたかっただけということも考えられます。もともと黄皓と姜維は仲が悪い上に劉禅には臣下の良し悪しを見極める器量もありませんでした。
いずれにしろ大臣と皇帝の連携プレーがうまくいっていなかったのでしょう。それを見抜いて攻撃を仕掛けた魏の司馬昭こそ天晴れです。
参考書籍:参考書籍:「三国演義(中国語版)」羅貫中/長江文芸出版社
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