夏侯覇の最期は正史と横山三国志で全く違う?正史三国志と漫画の違い

2019年9月8日


 

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夏侯覇

 

夏侯覇(かこうは)夏侯淵(かこうえん)の息子です。最初は劉備(りゅうび)に討たれた父の敵を討つために(220年~265年)に仕えます。しかし、魏の正始10年(249年)の「正始の政変」で曹爽(そうそう)司馬懿(しばい)に殺されたことにより、魏に不信感を抱いて蜀に逃走しました。

 

周瑜、孔明、劉備、曹操 それぞれの列伝・正史三国志

 

夏侯覇の最期については、正史とマンガで全く違っています。今回は全く違う2通りの夏侯覇の最期について紹介します。

 

自称・皇帝
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監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。戦略設計から実行までの知見を得るためにBtoBプラットフォーム会社、SEOコンサルティング会社にてWEBディレクターとして従事。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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正史の最期 その後の消息不明

法正に敗れる夏侯淵

 

夏侯覇は夏侯淵の次男です。父の夏侯淵は建安24年(219年)に定軍山の戦いで、劉備(りゅうび)により討たれました。父の復讐に燃えた夏侯覇は魏の太和4年(230年)には諸葛亮(しょかつりょう)の北伐の時に奮戦します。

 

夏侯玄

 

だが、正始10年(249年)の「正始の政変」により一族の曹爽が誅殺され、上司の夏侯玄(かこうげん)が免職されました。自分はどうなるか分からないでビクビクしている夏侯覇の所に、新しい上司として郭淮が赴任します。ところが、夏侯覇は郭淮(かくわい)と以前から犬猿の中であり、もう耐えられません。

 

逃げる夏侯覇

 

仕方ないので夏侯覇は亡命を決意します。夏侯覇が選んだのは蜀(221年~263年)でした。夏侯覇の従妹が張飛(ちょうひ)に嫁いでおり、その娘が蜀の第2代皇帝劉禅(りゅうぜん)の皇后になっていたのです。

 

夏侯覇の妻は誰?

 

こうして夏侯覇は自分の子も兄弟も捨てて亡命しました。蜀にたどり着いた夏侯覇を劉禅は丁重に扱って車騎将軍に任命されています。やはり、外戚(=皇后の親戚)という立場が役に立ったのでしょう。

 

蜀の姜維

 

その後の夏侯覇は記録が途絶えますが、蜀の延熙18年(255年)に姜維(きょうい)と狄道出兵を行うところから再登場します。魏の雍州刺史の王経を包囲して苦しめますが、陳泰(ちんたい
)
が援軍に来たので撤退となります。

 

張翼

 

残念なことに夏侯覇はこれを最後に消息不明となります。景耀2年(259年)に張翼(ちょうよく
)
が左車騎将軍に、廖化が右車騎将軍に分割任命されていることから、車騎将軍の官職は空席状態であったと考えられます。

 

また「趙雲伝」と「後主(劉禅)伝」を比較したところ、景耀3年(260年)年以前に諡号(死後にもらう名前)をもらっていることから、夏侯覇は延熙19年(256年)~景耀元年(258年)に亡くなっていると推測しています。

 

おそらく、病死ではないでしょうか・・・・・・

 

横山光輝『三国志』の夏侯覇の最期 戦死・・・・・・しかし、シーンは無し

 

いつも正史と小説『三国志演義』と比較が多いのですが、今回は横山光輝『三国志』の夏侯覇の最期を紹介します。夏侯覇が蜀に降伏する動機は、マンガでは司馬懿の専横に対しての危機感と簡単に解説されており、正史のように小難しい内容は説明していません。

 

また、蜀に亡命はするのですが向かった先も劉禅ではなく姜維でした。確かに姜維なら戦場で面識があるので頼る相手として妥当だと思います。その後は姜維のツテで劉禅と面会して蜀軍の仲間入りを果たします。姜維の北伐には参謀として従軍しており、コマの所々に姿が見えます。

 

しかし、炎興元年(263年)に劉禅が宴会をしている時に姜維から援軍要請の手紙が来ます。それを読んでいる時に近くにいた宦官の黄皓が「姜維はここ最近大した手柄を立てていません。先年も洮陽へ出兵している時に夏侯覇を失ってございます」とコメントします。

 

「先年」ということは、景耀5年(262年)です。どうやら、夏侯覇は北伐で戦死していたようです。正史とはだいぶ違っていることが分かります。マンガではページの都合なのか、横山氏が「どうでもいい」と感じたのか、戦死シーンすらありませんでした。

 

可哀そうなキャラクターでした・・・・・・

 

三国志ライター 晃の独り言

三国志ライター 晃

 

以上が、正史とマンガ比で較した夏侯覇の最期でした。横山光輝氏は、どのマンガ家よりも中国史のマンガを丁寧に描くのですが、思い入れの無いキャラクターに対しては1、2コマで殺害するクセがあります。

 

費禕の宴会に呼ばれて毒を塗った刀で暗殺に成功した郭修(かくしゅう)

 

代表は費禕(ひい)です。1コマで暗殺。筆者が、もう1つ記憶しているのは『項羽(こうう)劉邦(りゅうほう)』という作品に登場した辛奇です。韓信(かんしん)と義兄弟の契りまで結んだのですが、それが活かされる場面は全く無く、項羽との一騎打ちで2コマで討ち死に!

 

「虎も殺す」という豪傑の設定は、どこに行ったのでしょうか?

中学2年の時ですけど、今でも筆者泣かしの名場面です。(笑)

 

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