夏侯覇は夏侯淵の息子です。最初は劉備に討たれた父の敵を討つために魏(220年~265年)に仕えます。しかし、魏の正始10年(249年)の「正始の政変」で曹爽が司馬懿に殺されたことにより、魏に不信感を抱いて蜀に逃走しました。
夏侯覇の最期については、正史とマンガで全く違っています。今回は全く違う2通りの夏侯覇の最期について紹介します。
「夏侯覇 最期」
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正史の最期 その後の消息不明
夏侯覇は夏侯淵の次男です。父の夏侯淵は建安24年(219年)に定軍山の戦いで、劉備により討たれました。父の復讐に燃えた夏侯覇は魏の太和4年(230年)には諸葛亮の北伐の時に奮戦します。
だが、正始10年(249年)の「正始の政変」により一族の曹爽が誅殺され、上司の夏侯玄が免職されました。自分はどうなるか分からないでビクビクしている夏侯覇の所に、新しい上司として郭淮が赴任します。ところが、夏侯覇は郭淮と以前から犬猿の中であり、もう耐えられません。
仕方ないので夏侯覇は亡命を決意します。夏侯覇が選んだのは蜀(221年~263年)でした。夏侯覇の従妹が張飛に嫁いでおり、その娘が蜀の第2代皇帝劉禅の皇后になっていたのです。
こうして夏侯覇は自分の子も兄弟も捨てて亡命しました。蜀にたどり着いた夏侯覇を劉禅は丁重に扱って車騎将軍に任命されています。やはり、外戚(=皇后の親戚)という立場が役に立ったのでしょう。
その後の夏侯覇は記録が途絶えますが、蜀の延熙18年(255年)に姜維と狄道出兵を行うところから再登場します。魏の雍州刺史の王経を包囲して苦しめますが、陳泰が援軍に来たので撤退となります。
残念なことに夏侯覇はこれを最後に消息不明となります。景耀2年(259年)に張翼が左車騎将軍に、廖化が右車騎将軍に分割任命されていることから、車騎将軍の官職は空席状態であったと考えられます。
また「趙雲伝」と「後主(劉禅)伝」を比較したところ、景耀3年(260年)年以前に諡号(死後にもらう名前)をもらっていることから、夏侯覇は延熙19年(256年)~景耀元年(258年)に亡くなっていると推測しています。
おそらく、病死ではないでしょうか・・・・・・
横山光輝『三国志』の夏侯覇の最期 戦死・・・・・・しかし、シーンは無し
いつも正史と小説『三国志演義』と比較が多いのですが、今回は横山光輝『三国志』の夏侯覇の最期を紹介します。夏侯覇が蜀に降伏する動機は、マンガでは司馬懿の専横に対しての危機感と簡単に解説されており、正史のように小難しい内容は説明していません。
また、蜀に亡命はするのですが向かった先も劉禅ではなく姜維でした。確かに姜維なら戦場で面識があるので頼る相手として妥当だと思います。その後は姜維のツテで劉禅と面会して蜀軍の仲間入りを果たします。姜維の北伐には参謀として従軍しており、コマの所々に姿が見えます。
しかし、炎興元年(263年)に劉禅が宴会をしている時に姜維から援軍要請の手紙が来ます。それを読んでいる時に近くにいた宦官の黄皓が「姜維はここ最近大した手柄を立てていません。先年も洮陽へ出兵している時に夏侯覇を失ってございます」とコメントします。
「先年」ということは、景耀5年(262年)です。どうやら、夏侯覇は北伐で戦死していたようです。正史とはだいぶ違っていることが分かります。マンガではページの都合なのか、横山氏が「どうでもいい」と感じたのか、戦死シーンすらありませんでした。
可哀そうなキャラクターでした・・・・・・
三国志ライター 晃の独り言
以上が、正史とマンガ比で較した夏侯覇の最期でした。横山光輝氏は、どのマンガ家よりも中国史のマンガを丁寧に描くのですが、思い入れの無いキャラクターに対しては1、2コマで殺害するクセがあります。
代表は費禕です。1コマで暗殺。筆者が、もう1つ記憶しているのは『項羽と劉邦』という作品に登場した辛奇です。韓信と義兄弟の契りまで結んだのですが、それが活かされる場面は全く無く、項羽との一騎打ちで2コマで討ち死に!
「虎も殺す」という豪傑の設定は、どこに行ったのでしょうか?
中学2年の時ですけど、今でも筆者泣かしの名場面です。(笑)
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