三国志の英雄曹操、そんな彼も反董卓連合軍に参加した頃は太守でも刺史でもなく、ただのサラリーマン官僚だったので率いる兵も少なく、戦略を提案しては、他の諸侯に鼻で笑われるという屈辱を味わいます。
そんな曹操が、立身出世の機会を掴むのは青州黄巾賊30万を降伏させた時で「魏武の強ここより始まる」と史書に書かれる程でした。
そんな青州兵ですが、実は曹操の部下ではなく契約を結んだ同盟関係だったのです。
関連記事:30話:曹操軍を支えた最強の青州兵
関連記事:27話:良い事が無かった曹操に勝機が訪れる!青州兵誕生秘話
この記事の目次
青州黄巾賊と曹操の出会い
では、最初に曹操と青州黄巾賊の馴れ初めをお伝えしましょう。
黄巾の乱が鎮圧され張角が死んだ後も、青州黄巾賊は生き残っていました。
これは黄巾賊が宗教団体であり、張角の教えが太平道の教義として残っていた事や、元々、俗世から隔絶して信者同士で団体生活を送る
太平道のシステムが教祖の死後も教団が崩壊するのを防いでいたのではと推測します。
西暦191年、青州黄巾賊は同じく漢王朝に抵抗を続けていた黒山賊と合同しようと渤海郡に侵入しますが、
そこで公孫瓚軍歩騎二万に撃退されます。
この時の敗北は散々だったようで、後漢書の記録では、
斬首三万、追撃して渡河を襲い大破して死者数万、生口(奴隷)七万余を収めた。
公孫瓚の威名は大いに震い、奮武将軍・薊侯に進んだ。
と書かれており、その間に黄巾賊は多くの物資も失った事でしょう。
このままでは戻れない青州黄巾賊は、方向転換し兗州に襲い掛かります。
192年、兗州刺史の劉岱は、済北郡の相、鮑信が自重を進めても聞かず打って出て大敗しさらに戦死してしまいます。
これにより兗州は黄巾賊の蹂躙の巷になり、危機意識を募らせた鮑信は、東郡太守で戦上手の曹操を兗州刺史とすべく、
根回しをし別駕従事や治中従事を説得する事に成功。
ここで曹操は一足飛びに兗州刺史となり、青州黄巾賊鎮圧に向かいます。
苦戦の末に青州黄巾賊を屈伏させる
寿張で青州黄巾賊と衝突した曹操ですが、長年戦い続けた黄巾賊は強く、一進一退の攻防が続きます。
曹操は信賞必罰を厳しくして兵士を引き締め、陣頭に立って戦争を指揮し数の劣勢をひっくり返す為に奇襲を多用なんとか黄巾賊を撃退します。
しかし、この戦いで曹操を兗州刺史に引きたてた恩人鮑信は戦死しました。
曹操は、鮑信の死体を探して手厚く葬ろうとしますが、死体は見つからずやむなく、鮑信の姿を模した木造を造り埋葬したそうです。
黄巾賊との闘いはさらに済北でも続き、ここで青州黄巾賊は追い詰められ戦闘員30万と男女合わせて100万人が降伏。曹操は投降者から選りすぐりの精兵を集めて青州兵を組織します。それまで貧弱な兵力しか持たなかった曹操は、三十万の青州兵を活用し以後、急速に勢力を増していきます。
曹操は青州黄巾賊を降伏させていない?
正史三国志でも三国志演義でも、曹操が苦戦の末に青州黄巾賊を従えた点では記述が一致しています。ところが、事実は小説より奇なり曹操の伝である武帝紀が引く魏書には、兗州で戦っている最中の曹操の陣営に青州黄巾の司令部が送った密書の記録が残っているのです。
その密書の内容を要約すると、
我々は曹公が昔、済南の相として当時、流行していた邪教・淫祠を打ち壊し
十余県のうちで八県の長官を賄賂斡旋を理由にクビにした手腕を高く評価している。
そもそも、太平道も世直しを目的として起こり、あなたも世直しをしようとしている。
お互いに同志なのに、どうしていつまでも腐った漢王朝に従っているのか?
これから世の中を動かすのは太平道なのだから、曹公もついてくるべきだ。
このように、かなり上から目線の譴責の内容でした。曹操は密書の内容に激怒して罵り、しばしば降伏の方法を提示したとあるのです。しかし史書を読む限り、曹操陣営の被害は書かれても青州黄巾賊の被害はありません。曹操は寡兵で大軍を翻弄する戦いが得意とはいえ、本当に30万もの黄巾賊を降伏させたのかは疑問が残る所です。
賈逵伝に残る去っていく青州黄巾賊
曹操と青州黄巾賊は同盟関係だったのか、それとも上司と部下だったのか?
それを解くカギは、曹操死後の葬儀委員長を務めた賈逵伝が引く魏略にあります。
曹操が死んだ時、曹丕は鄴にいて、曹彰が至る前に人民は労役で苦しみまた天下には疫病が流行していた。
その為に、軍中は大騒ぎで、群臣は天下の混乱を恐れ喪を発しない事を願った。
賈逵はそれに猛反対して喪を発し、内外には喪に参列する事と葬儀を終えたら安静にして動かないように命じた。
すると、青州兵は、銅鑼を鳴らしながら勝手に隊列を離れて去ろうとしたので
群臣は命令違反者を討伐せよと騒いだが、賈逵はそれを制止。
この機会に労うべきで、青州兵の行く先々で食事と水を用意させよと命じた。
これを見ると、曹操と青州兵の関係性が分かります。曹操は青州兵を配下にしたのではなく、自分が存命の間は尽くすようにという契約を結んでいたのです。
恐らく、賈逵は曹操から真実を告げられていて、だからこそ青州兵の勝手な行動を叱るどころか労えと命じたのでしょう。
曹操に厚遇されていた青州兵
実際に青州兵の乱暴狼藉については、曹操はかなり寛容であったようです。
三国志魏志于禁伝では、以下のような逸話があります。
張繍に敗れた曹操軍が総崩れになっていた時に于禁が、身ぐるみ剥がれた兵士を見つけて理由を聞くと「青州兵にやられました」と答えた。于禁は激怒して、「味方から略奪するとは、さては賊に還ったか」と罵り青州兵の陣営に攻撃を加えて報復。すると、青州兵は曹操に泣きついて于禁を罰するように讒言した。
曹操は青州兵の讒言には応じませんでしたが、青州兵の略奪の罪も不問にしました。軍規に厳しい曹操にしては寛容過ぎる対応で、青州兵が実際には曹操と同盟を結んでいただけという一つの根拠になります。
三国志ライターkawausoの独り言
いかがだったでしょうか?
当初から青州黄巾賊には、善政を敷いていた曹操へのシンパシーがあり曹操にも自分の精兵を増やして、兗州の動乱を収めたい思惑がありました。この二つが一致し、平和な世界を実現するという条件で青州兵は、曹操の寿命が尽きるまでの期限付きで曹操に従うという契約を結んだのです。
kawausoはそう考えますが、皆さんはどうですか?
参考文献:史実三国志「演義」「正史」さらに最新発掘で読み解く、魏・呉・蜀
関連記事:太平道の教祖、張角死後の黄巾軍はどうなったの?青州黄巾軍って何?
関連記事:宛城の戦いで曹操に称賛された于禁という武将の性格を知ってみよう