徐晃は魏(220年~265年)の将軍です。最初は後漢(25年~220年)の車騎将軍である楊奉に仕えていましたが曹操に出会うと楊奉に見切りをつけて曹操に仕えました。
以降は魏の将軍として生涯を過ごします。ところで徐晃はどのような戦績があるのでしょうか?
そこで今回は正史『三国志』の徐晃の戦績について解説します。
※記事中のセリフは現代の人に分かりやすく翻訳しています。
「徐晃 戦績」
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徐晃無敵
徐晃は曹操に仕えるとすぐに呂布・劉備との戦いに出動しますが派手な活躍はありません。建安5年(200年)の顔良・文醜との戦いにも出動しています。
官渡の戦いにも出陣して最大の功績を挙げたと陳寿は記しています。だが素っ気ない描写であり、どの程度の凄さなのか伝わりずらいです。とにかく「勝った」としか記さない。でも、裏を返せばそれだけ無敵だったということでしょう。
西涼軍との戦い
徐晃の記録がはっきりとするのは、建安16年(211年)の馬超・韓遂の反乱からです。出陣した曹操は潼関まで到着。ところが、黄河を渡って戦うことが出来ずに困ったので徐晃に相談しました。
「曹操様が出陣して兵力を誇示しているのに、馬超たちは別軍を出して蒲阪という土地に駐屯しています。彼らの思慮の足りなさが分かります。私に精鋭を貸してください。私の軍が先に陣を設置して敵の背後を絶ってみせます」と徐晃は勇ましく言いました。
曹操は「その意気込み気に入った」という感じで徐晃に4千の騎兵・歩兵を与えて出陣させます。こっそりと敵の目を欺いて移動に成功した徐晃の軍は、曹操の到着を待ちながら陣を設置。
しかし西涼軍も設置中の音が響いて気付いたのでしょう。西涼軍の梁興が5千の兵で夜襲を仕掛けてきました。だが、徐晃はそんなことは予測しており待ち構えて梁興を撃退しました。
徐晃のおかげで曹操は黄河を渡ることが出来て、馬超・韓遂連合軍を打ち破ることに成功しました。
関羽との戦い
建安24年(219年)に荊州に駐屯していた関羽が樊城にいる曹仁を攻めます。
援軍として于禁と龐徳が派遣されますが、台風により陣が流されてしまい軍が壊滅。于禁は捕縛されて、龐徳は処刑されました。関羽は樊城と襄陽を包囲しており、もはや陥落するのも時間の問題でした。
そんな時に派遣されたのが徐晃です。曹操軍では典韋、李典、夏侯淵、楽進、荀彧などの古参の部下は鬼籍に入っており、夏侯惇も老齢に達しているので、徐晃が抜擢されるのは自然の成り行きでした
さらに、曹操は荊州の分割問題で関羽ともめている孫権と同盟を結びました。孫権は呂蒙を派遣して関羽が留守のスキを突いて荊州を奪取。一方、関羽と対峙している徐晃は敵を欺く手段として塹壕を掘って道を作り、背後を絶つ作戦を示します。
孫権が背後から荊州を奪ったことを耳にした関羽は徐晃と戦っても勝てないと悟り撤退しますが、徐晃はそれを打ち破りました。
凱旋した徐晃を曹操は「樊城と襄陽を守ってくれたのは全て君のおかげだ」とねぎらいます。また徐晃の軍隊が乱れていない様子を見て、「徐晃将軍は周亜父の風格があるな」とコメントします。
周亜父とは前漢(前202年~後8年)初期の宰相であり呉楚七国の乱という内乱の鎮圧に功績を挙げた人物です。曹操の死後、曹丕が後を継ぐと徐晃は今までの功績から右将軍に昇進しました。
三国志ライター 晃の独り言
以上が徐晃の功績に関しての解説でした。徐晃は正史では小説『三国志演義』のようなド派手な活躍がありません。筆者が「徐晃伝」の読了後に思ったことは「徐晃って・・・・・・地味だな」でした。
だけど、地味の中に格好良さがあると思いました。現代で例えるのなら、会社の中で目立たない存在だけどケアレス・ミスもなく仕事をしっかりとこなしていく人。徐晃はきっとそんなタイプだったのでしょう。現代社会は求める人材に「即戦力」という言葉を使用します。
しかし、本当に求める人材は徐晃のようなタイプではないでしょうか?
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