徐晃の戦績ご覧あれ!派手な活躍ほぼ無し!だけど、ミス無くこなす徐晃

2019年10月24日


 

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楊奉

 

徐晃(じょこう)(220年~265年)の将軍です。最初は後漢(25年~220年)の車騎将軍である楊奉(ようほう
)
に仕えていましたが曹操(そうそう)に出会うと楊奉に見切りをつけて曹操に仕えました。

 

徐晃

 

以降は魏の将軍として生涯を過ごします。ところで徐晃はどのような戦績があるのでしょうか?

そこで今回は正史『三国志』の徐晃の戦績について解説します。

 

※記事中のセリフは現代の人に分かりやすく翻訳しています。

 

自称・皇帝
当記事は、
「徐晃 戦績」
などのワードで検索する人にもオススメ♪

 

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監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。戦略設計から実行までの知見を得るためにBtoBプラットフォーム会社、SEOコンサルティング会社にてWEBディレクターとして従事。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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徐晃無敵

赤兎馬にまたがる呂布

 

徐晃は曹操に仕えるとすぐに呂布(りょふ)劉備(りゅうび)との戦いに出動しますが派手な活躍はありません。建安5年(200年)の顔良(がんりょう)文醜(ぶんしゅう
)
との戦いにも出動しています。

 

陳寿(晋)

 

官渡の戦いにも出陣して最大の功績を挙げたと陳寿(ちんじゅ)は記しています。だが素っ気ない描写であり、どの程度の凄さなのか伝わりずらいです。とにかく「勝った」としか記さない。でも、裏を返せばそれだけ無敵だったということでしょう。

 

西涼軍との戦い

蜀馬に乗って戦場を駆け抜ける馬超

 

徐晃の記録がはっきりとするのは、建安16年(211年)の馬超(ばちょう)韓遂(かんすい
)
の反乱からです。出陣した曹操は潼関まで到着。ところが、黄河を渡って戦うことが出来ずに困ったので徐晃に相談しました。

 

五虎大将軍の馬超

 

「曹操様が出陣して兵力を誇示しているのに、馬超たちは別軍を出して蒲阪という土地に駐屯しています。彼らの思慮の足りなさが分かります。私に精鋭を貸してください。私の軍が先に陣を設置して敵の背後を絶ってみせます」と徐晃は勇ましく言いました。

 

曹操

 

曹操は「その意気込み気に入った」という感じで徐晃に4千の騎兵・歩兵を与えて出陣させます。こっそりと敵の目を欺いて移動に成功した徐晃の軍は、曹操の到着を待ちながら陣を設置。

 

馬に乗って戦う徐晃

 

しかし西涼軍も設置中の音が響いて気付いたのでしょう。西涼軍の梁興が5千の兵で夜襲を仕掛けてきました。だが、徐晃はそんなことは予測しており待ち構えて梁興を撃退しました。

 

夏侯淵にフルボッコされる韓遂

 

徐晃のおかげで曹操は黄河を渡ることが出来て、馬超・韓遂連合軍を打ち破ることに成功しました。

 

関羽との戦い

樊城の戦い

 

建安24年(219年)に荊州に駐屯していた関羽が樊城にいる曹仁(そうじん
)
を攻めます。

 

ホウ徳(龐徳)

 

援軍として于禁(うきん)龐徳(ほうとく)が派遣されますが、台風により陣が流されてしまい軍が壊滅。于禁は捕縛されて、龐徳は処刑されました。関羽は樊城と襄陽を包囲しており、もはや陥落するのも時間の問題でした。

 

悪来と呼ばれた典韋

 

そんな時に派遣されたのが徐晃です。曹操軍では典韋(てんい)李典(りてん)夏侯淵(かこうえん)楽進(がくしん)荀彧(じゅんいく)などの古参の部下は鬼籍に入っており、夏侯惇も老齢に達しているので、徐晃が抜擢されるのは自然の成り行きでした

 

関羽に無視される孫権

 

さらに、曹操は荊州の分割問題で関羽ともめている孫権と同盟を結びました。孫権は呂蒙(りょもう)を派遣して関羽が留守のスキを突いて荊州を奪取。一方、関羽と対峙している徐晃は敵を欺く手段として塹壕を掘って道を作り、背後を絶つ作戦を示します。

 

関羽

 

孫権が背後から荊州を奪ったことを耳にした関羽は徐晃と戦っても勝てないと悟り撤退しますが、徐晃はそれを打ち破りました。

 

曹操

 

凱旋した徐晃を曹操は「樊城と襄陽を守ってくれたのは全て君のおかげだ」とねぎらいます。また徐晃の軍隊が乱れていない様子を見て、「徐晃将軍は周亜父の風格があるな」とコメントします。

 

死期を悟る曹操

 

周亜父とは前漢(前202年~後8年)初期の宰相であり呉楚七国の乱という内乱の鎮圧に功績を挙げた人物です。曹操の死後、曹丕が後を継ぐと徐晃は今までの功績から右将軍に昇進しました。

 

三国志ライター 晃の独り言

三国志ライター 晃

 

以上が徐晃の功績に関しての解説でした。徐晃は正史では小説『三国志演義』のようなド派手な活躍がありません。筆者が「徐晃伝」の読了後に思ったことは「徐晃って・・・・・・地味だな」でした。

 

徐晃と夏侯淵

 

だけど、地味の中に格好良さがあると思いました。現代で例えるのなら、会社の中で目立たない存在だけどケアレス・ミスもなく仕事をしっかりとこなしていく人。徐晃はきっとそんなタイプだったのでしょう。現代社会は求める人材に「即戦力」という言葉を使用します。

 

しかし、本当に求める人材は徐晃のようなタイプではないでしょうか?

 

※はじめての三国志では、コメント欄を解放しています。

徐晃ファンの人、または筆者と徐晃に対しての考えが違う人はコメントをお寄せください。

 

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