諸葛融とはどんな人?真面目な諸葛家に生まれたエンターテイナー


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諸葛融

 

乱世の人物を見ていると、この人は平和な時代に生まれていれば、それなりに平穏(へいおん)な人生を送って天寿を全うしたろうになーと思う人が時々います。

今回取り上げる諸葛融(しょかつゆう)は、まさにそんな人物の一人です。

 

諸葛瑾

 

父が諸葛瑾(しょかつきん)、兄が諸葛恪(しょかつかく)という呉の重鎮(じゅうちん)の家に生まれた諸葛融は戦争の才がなく代わりに遊び大好き、人を楽しませるのが好きなエンターテイナーでした。しかし、まさにその血筋の為に悲劇の最期を迎えざるをえなかったのです。

 

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諸葛家のボンボンは愛されて伸び伸び育つ

洛陽城

 

諸葛恪は、呉の重臣、諸葛瑾の末っ子として誕生しました。

 

諸葛亮の養育を受ける若き諸葛攀

 

長兄は諸葛瑾で次兄の諸葛喬(しょかつきょう)は、当時子供のいなかった叔父の諸葛亮(しょかつりょう)の下に養子で出ていました。

そんなこんなで末っ子の融は、父や周辺に愛されて育ったので、性格は寛容で小さい事には(こだ)らず、華やかな事や遊びに長じていました。

一流の教育も受けていて、博学でしたが知識は正確ではなかったそうです。

 

海上での戦いの孫権

 

色々な芸事に通じていたお陰で、同じく狩猟が好きな孫権に宮殿に呼ばれ無位無官の頃から様々な遊戯を披露して気に入られていたようです。

成長して後に騎都尉(きとい)に任じられています。

しかし、ここからは特に出世する様子がなく当人も気にしていません。

兄の諸葛恪は、若い頃から上昇志向が強く、なんとか出世しようと孫権に様々な提言をしていますから、そこはかなり性格が違うようです。


公安に駐屯し諸葛融ランドを開く

兵を率いる諸葛融

 

呉の赤鳥(せきちょう)年間、諸葛融は、毗陵(ひりょう)で屯田に当たっていた陳表(ちんひょう)の病死により、代わって赴任(ふにん)し屯田の仕事を継ぎました。

西暦241年、最愛の父、諸葛瑾が死去、本来なら兄の諸葛恪が父の家督を継ぎますがすでに諸葛恪は封爵されていたので、末の融が父の家督を継ぎます。

こうして、諸葛融は公安に赴き、父の兵士を相続して駐屯します。

朝まで三国志201 観客2 モブでブーイング

 

ここは魏との国境であり、常に緊張感でピリピリした土地でした。

しかし、遊びが好きな諸葛融は退屈で仕方がないのでスポーツをして部下の気持ちをほぐそうと考えつきます。

諸葛融は、秋と冬には狩猟と軍事訓練をし、春と夏には盛んに宴会を開いて、双六(すごろく)、輪投げ、花札、射的をレクリエーションとして提供します。

この諸葛融、戦争は全然ダメ男君ですが、遊びに掛けては超一流でした。

 

レクリエーションでは同レベルの参加者を組み合わせてゲームが白熱するようにし、それぞれの会場を回って声を掛けたり、

飛び入り参加して盛り上げ上等な果物や美酒を会場に差し入れしたりして、客を飽かせなかったのです。

 

兵士

 

諸葛融のレクリエーションは非常に評判がよく、兵士も役人もよく懐き休暇を与えられ帰郷した兵士は、レクリエーションに参加したいばかりに、

わざわざ千里の道を遠しともせずに戻ってくる者までいました。

この諸葛融ランドが開いている間は、紛争地帯も平和そのものだったようです。

 

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諸葛融、共同作戦をドタキャンし恨まれる

呉征伐で活躍し、魏の重臣になる王昶(おうちょう)

 

西暦250年、二宮の変で弱体化した呉の隙を狙い、魏の王昶(おうちょう)江陵(こうりょう)を攻めます。

これに対して、朱績が応戦しますが敗北して江陵城に逃げ帰ります。

王昶はカッとしやすい朱績の気分を激高させようと撤退するふりをしつつ挑発行為(ちょうはつこうい)を繰り返し、それにハマった朱績は

再度城を出て攻撃、再び大損害を受けた末に籠城します。

 

王昶は江陵城を包囲しますが、呉の陸凱(りくがい)が援軍に来たので退却を決意しました。

朱績は陸凱と共に王昶を攻めようとしますが、兵力が足りず諸葛融に援軍を要請します。

諸葛融はこれに対してOKしたので朱績と陸凱は王昶を追い詰めますが、結局、諸葛融は約束を破り出撃せず王昶を取り逃がしました。

兵士 朝まで三国志

 

元々、諸葛兄弟と仲が悪い朱績は、これを恨み増々諸葛融を嫌うようになります。

どうして、諸葛融が約束を破ったのかは不明です。

諸葛恪

 

西暦252年孫権が死去、ひと悶着(もんちゃく)ありましたが諸葛恪が太傅(たいふ)の地位に就き七歳の皇帝孫亮(そんりょう)を補佐して政権を掌握します。

同時に、諸葛融も奮威(ふんい)将軍に任命され、仮節を与えられて淮何征伐(わいがせいばつ)に同行したりしています。

しかし、やはり諸葛融に具体的な手柄はありませんでした。

これはどう見ても、諸葛融に戦争の才能がないとしか考えられません。


諸葛恪がクーデターに倒れ、諸葛融も同じ運命を辿る

諸葛恪と孫峻

 

孫権の崩御をついて呉に攻めて来た魏軍の胡遵・諸葛誕を東興の役で撃退した諸葛恪は持前の自惚(うぬぼ)れが強い性格を制御できなくなり

翌年には、周囲の反対も聞かずに、合肥新城(がっぴしんじょう)を二十万の大軍で攻めます。

 

諸葛恪の栄光と破滅03 諸葛恪

 

しかし、今度は大失敗、世論の批判を恐れた諸葛恪は己を守ろうと政治も独裁色を強めていきます。

これを恐れた孫峻(そんしゅん)は、諸葛恪の排除を画策して実行。諸葛恪は殺害され三族は皆殺しにされました。

病に倒れる始皇帝

 

孫峻は、公安の諸葛融を見逃すつもりはなく施績(しせき)孫壹(そんいつ)全熙(ぜんき)のような将軍を派遣して諸葛融を誅殺しようと進撃、城を包囲しました。

父の諸葛瑾から受け継いだ兵力があった融ですが、攻めて来た討伐軍にただ驚き、焦り、おろおろするばかりで何も決断できません。

結局、万事休止(ばんじきゅうす)と諦め、毒を飲んで自決しました。残された三人の息子もやはり罪を逃れられず誅殺されたそうです。

 

三国志ライターkawausoの独り言

 

諸葛融は、やはり生まれた時代を間違えたとしか言えません。

もう少し、例えば100年後に江南に生まれていれば、東晋の門閥貴族で遊芸に長じた多彩な文化人として別の分野で功績を残したかも知れないのです。

しかし、運命とは残酷なもので、野心家の兄と血縁があったばかりに誅殺の不名誉を避ける方法がありませんでした。

 

参考文献:正史三国志

 

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