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陳震とはどんな人?天下を呉と二分した外交官

2020年2月21日


 

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三国志の地図

 

()に比べると弱小勢力だった()(しょく)。しかし、小さくても国は国、気分だけは魏を飲みこむつもりだったようで、何と魏を滅ぼした後に中華を二分する取り決めまで細かく設定していました。この中華二分計画をまとめたのが陳震(ちんしん)だったのです。

 

 

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監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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劉備の秘書から出世が始まる

陳震

 

陳震(ちんしん)は字を孝起(こうき)と言い荊州南陽郡(けいしゅうなんようぐん)の人です。劉琦(りゅうき)の死後に劉備(りゅうび)が荊州牧に就任すると、辟召(へきしょう)を受けて劉備の従事(じゅうじ)になりました。従事とは今でいう秘書の事です。

 

龐統

 

西暦212年、陳震は劉備の入蜀に龐統(ほうとう)等と共に従軍し、蜀平定後は蜀郡北部都尉(しょくぐんほくぶとい)になり後に犍為太守に昇進しました。陳震は赴任先で業績を挙げたのか、西暦225年には成都に入り、尚書になりすぐに尚書令に(うつ)ります。トントン拍子の出世ですが、ここには陳震の有能さ以外にも別に理由がありました。というのも陳震は、この頃にはそれなりの老齢になって風貌(ふうぼう)が重々しく、逆に性格は増々慎み深くなっていたのです。

 

 

馬良

 

 

これは、とにかく性格に一癖あり、色々(とが)った事をする人が多い蜀政権において外交にはうってつけの人物でした。すでに亡くなっていたMr.ディプロマット馬良(ばりょう)に代わる人物として活躍を期待されたのです。

 

蜀の外交官として呉に入る

洛陽城

 

西暦229年、呉の孫権が皇帝に即位し、中国は三国時代に入ります。本来ならば、蜀としては劉禅(りゅうぜん)以外に帝業を継ぐ存在は許しがたいハズですが、現実主義者の孔明(こうめい)は魏を滅ぼす事を優先して両帝並立を認め、陳震を衛尉(えいい)に昇格させて呉に派遣しました。陳震は呉に入ると、城守に対し孫権への書面を託しました。

 

幕末 魏呉蜀 書物

 

蜀と呉はたがいに使者を往来させ、冠も車馬の天蓋(てんがい)もよく見える程ですが、今後はさらに友好を固める為に新しく盟約を結びたいと考えています。めでたくも呉君は志尊(しそん)の高みに登られたとの報告を受け、我が国でも慶賀(けいが)しています。

 

ここに東西に帝が立ったからには、それぞれ境界線を定めて領土を画定しないといけないでしょう。領土を定め、力を合わせれば曹賊を討つ事が出来ないハズはありません。

 

以上、つらつらと拙文を並べましたが、蜀と呉では国制が異なるので、意図せずして無礼な事を述べているかも知れませんが、不才の身にて過分な使命を背負っての事、至らぬ部分は平にご容赦下さいませ。

 

諸葛瑾

 

孫権には、すでに諸葛瑾(しょかつきん)を通じて根回しが終っているので儀礼的な文書ですが、ともかく、こうして陳震は孫権に目通りが叶いました。

 

呉の武将

 

陳震、魏を滅ぼした前提で呉と中華を二分す

孫権

 

陳震が武昌に至ると、孫権はこれを丁重に迎え、ともに天に誓うために登壇(とうだん)生贄(いけにえ)の牛を殺して、その生き血を互いにすすりあいました。かくして、蜀と呉はまだ魏を滅ぼしてはいないのですが、これを滅ぼした前提で中華を二分し、豫州(よしゅう)青州(せいしゅう)、徐州、幽州(ゆうしゅう)は呉に属し、兗州(えんしゅう)冀州(きしゅう)幷州(へいしゅう)、涼州は蜀に属し、司州の土地は函谷関(かんこくかん)を境界とする事で盟約を結び、以下の誓約書(せいやくしょ)を取り交わします。

 

ヘソにろうそくを刺される董卓

 

董卓(とうたく)に始まり曹操(そうそう)に至った賊共は、天下を混乱の極みに落とし、曹丕は天子の位を盗み取り、今や二代目の曹叡(そうえい)だ。古来、高辛氏(こうしんし)共工(きょうこう)を討ち、()(しゅん)三苗(さんびょう)を征伐したように曹叡を討つのは蜀と呉以外にない。敢えて言おう曹叡などカスであると!

 

行軍する兵士達b(モブ)

 

さて、極悪カスを討つには、まずその罪を明らかにして分裂を誘いつつ、その土地を奪い取り民に帰るべき場所を示す必要がある。この大目標を達成するのに古来から盟約が活用されてきた。呉と蜀はマブダチではあるが、後で領地の取り分で揉めてもアレなので、土地をナニしてアレするのが妥当だと思う。諸葛丞相(しょかつじょうしょう)陰陽(おんみょう)に影響を及ぼし、中華の情勢に大きな影響を与える存在故、盟約の相手として不足はない。

 

 

 

行軍する兵士達a(モブ)

よって今、壇を立て獣を殺し(あき)らかに神明に告げ、血をすすって誓約書を取り交わし副本を宗廟(そうびょう)に置いて保管する。これからは呉蜀両国は打倒魏で一心同体となり、蜀の敵は呉の敵であり、呉の敵は蜀の敵である。色々グダグダ書いてきたが、言いたい事は神に誓ったのだから盟約は破るなという事だ。ゆびきりげーんまん、嘘ついたら天罰でほーろぶ!

 

呉お正月企画、お酒にまつわる逸話07 孫権

 

多少面白くしていますが、大体の意味はこんな感じです。陳震はこの大役を滞りなく済ませて蜀に帰還し、城陽亭侯(じょうようていこう)に昇進したのです。

 

諸葛亮に李厳の事を注意していた陳震

北伐する孔明

 

そんな陳震ですが、人を見る目はあったようです。呉に出発する前に諸葛亮に言うには、「丞相は李平(李厳)を重んじておられるようですが、それは危うい事です。あの李平は心の中に棘があり、同郷の人間でさえ近づきませぬ」として李厳を重用してはいけないと釘を刺しました。

 

スマホをいじる孔明

 

しかし、諸葛亮は陳震のアドバイスを受けつつも、「李厳の心に(とげ)があっても触れなければいいだけだ」と受け流してしまいました。ところが、その李厳が第四次北伐時に食糧輸送を滞こおらせて北伐を断念せざるを得なくなり、さらに責任を回避する為に孔明に撤退の罪をなすりつけた事に諸葛亮は立腹し、同時に陳震の見立てが正しかった事を思い知らされ、大反省し使者を立てて陳震に謝罪しました。蜀呉同盟に大きな功績を残した陳震は西暦235年に死去しています。

 

 

三国志ライターkawausoの独り言

kawauso 三国志

 

ところで、諸葛亮が李厳を(なじ)った言葉として、李厳は蘇秦(そしん)張儀(ちょうぎ)のように口先で人を(だま)すヤツだというのがあります。その言葉からも分かるように諸葛亮は口先の嘘を嫌い、紙の上での合意であった呉との領土分割案に関しても大真面目に守っています。同盟が結ばれた翌年、蜀では爵号(しゃくごう)と官職の一斉変更をし、例えば魯王劉永(ろおうりゅうえい)甘陵(かんりょうおう)梁王劉理(りょうおうりゅうり)安平王(あんぺいおう)というように、呉の領地に封地(ふうち)を置いていた王族については蜀の領地に名称を変更し、征東将軍を置かないなど呉に配慮したのです。

諸葛亮からの評価が高い陳震

 

孔明は、こういう律義な人なので陳震のような老年で謙虚な人を好んだのでしょうし、逆に言うと、舌先三寸の人に騙されやすかったんだと思います。

 

参考文献:正史三国志

 

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北伐の真実に迫る

北伐

 

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kawauso

台湾より南、フィリピンよりは北の南の島出身、「はじめての三国志」の創業メンバーで古すぎる株。もう、葉っぱがボロボロなので抜く事は困難。本当は三国志より幕末が好きというのは公然のヒミツ。三国志は正史から入ったので、実は演義を書く方がずっと神経を使う天邪鬼。

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