魏延が暗殺しようとした劉璋とはどんな人だったの?

2020年5月12日

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kawauso編集長(石原 昌光)

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kawauso編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務めるほか、紙媒体やWebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者・おとぼけ(田畑 雄貴)

コンテンツ制作責任者

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月に「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感していただけることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。

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五斗米道の教祖・張魯

 

建安(けんあん
)
17年(212年)に宗教団体「五斗米道(ごとべいどう
)
」の張魯(ちょう ろ
)
の攻撃から守ってあげることを口実に劉備(りゅうび)は、劉璋(りゅう しょう
)
が守備している益州(えきしゅう
)
に侵攻します。この時、軍師の龐統(ほうとう)から劉璋の暗殺を提案されますが劉備は拒否。

 

龐統

 

『三国志演義』で龐統と魏延(ぎえん)はグルになって、酒宴の席で劉璋の暗殺を企みます。ところで、龐統と魏延が殺そうとした劉璋とは、どんな人物でしょうか?

 

今回は正史『三国志』をもとに劉璋について解説致します。

 

漢王朝の末裔

劉璋(りゅうしょう)

 

劉璋は荊州(けいしゅう)江夏郡こうかぐん)竟陵県(きょうりょうぐん)の出身であり、前漢(ぜんかん)(前202年~後8年)の第6代皇帝景帝(けいてい
)
の子の劉余(りゅう よ
)
の子孫です。ちなみに、荊州(けいしゅう)の長官である劉表(りゅう ひょう
)
も同じ子孫でした。

 

水滸伝って何? 書類や本

 

ただし、劉表は漢王朝の子孫という証拠が何もありませんので間違いなく「自称」です。劉璋は劉備や劉表と違い、一族に関して史料が残っているので、彼はおそらく漢王朝の末裔と考えられます。

 

小説の伏線

三国志演義_書類

 

劉璋は益州の長官である劉焉(りゅう えん
)
の末息子です。劉焉と言えば『三国志演義』で劉備が黄巾軍討伐のために仕えた幽州(ゆうしゅう
)
の長官でした。

 

劉焉

 

だが、それは小説の虚構(きょこう)。劉焉は幽州の長官になった記録は正史にありません。あれは将来、劉備が劉焉の息子の劉璋の益州(えきしゅう
)
を奪取するという伏線です。羅貫中(らかんちゅう)も憎い演出をしますね(笑)

 

献帝に仕える劉璋

献帝

 

話を戻します。劉璋は若い時は父親の命令で長安(ちょうあん)の献帝(けんてい)に仕えていました。彼1人だけなのかと思ったら、兄の劉範(りゅう はん
)
・劉誕(りゅう たん)・劉瑁(りゅう ぼう
)
も一緒です。しかも劉範は劉焉の後継者でした。

李傕・郭汜祭り

 

いくらかわいい子には旅をさせろとはいえ、後継者を迂闊(うかつ)に外に出すものではありません。それどころか当時の長安の政治を牛耳っていたのは、董卓軍の残党である李傕(りかく)と郭汜(かく し)です。何かあったら一大事でした。ところが劉焉には狙いがありました。

 

馬騰・韓遂と一緒に長安を襲撃を計画するも・・・

李カク(李傕)と馬騰

 

興平(こうへい)元年(194年)に劉焉は長男の劉範や他の朝臣と連絡をとって、西涼(せいりょう
)
の馬騰(ばとう)・韓遂(かんすい)と連携して李傕(りかく)・郭汜(かく し)を倒す計画を立てます。危険性が高いことから劉焉配下の王商(おう しょう
)
が諫めますが、劉焉は聞き入れません。計画はそのまま実行に移されます。

 

献帝を保護する曹操

 

もしこの計画が成功したら、献帝(けんてい)を担ぎ出すのは曹操ではなく劉焉だったかもしれません。または、劉焉の王朝が誕生したかもしれません。

馬騰

 

だけど簡単にいかないのが世の常です。馬騰軍の進軍が李傕たちに漏れてしまい、長安襲撃計画が発覚!劉璋の兄の劉範・劉誕(りゅう たん)は殺されました。馬騰・韓遂は郭汜・樊稠(はん ちゅう
)
により敗北。連合軍は壊滅しました。

 

後漢王朝に見切りを付ける劉焉

 

三男の劉瑁(りゅう ぼう
)
と末っ子の劉璋は命からがら長安から脱出に成功して、益州(えきしゅう
)
までたどり着きます。長男と次男を一気に失い、計画も頓挫した劉焉はショックだったのか間もなくこの世を去りました。

張魯との争い

劉璋と劉備

 

父と兄2人を失った劉璋は、そのまま益州の長官になりました。普通なら三男の劉瑁が後継者になるのが妥当ですが、彼は精神疾患を抱えていたので政治の重圧に耐えれることは不可能と判断されて劉璋に後継者の役割が回ってきたのです。

 

五斗米道(はじめての三国志)

 

劉璋が対応に苦労したのは漢中に一大勢力を築いている宗教団体「五斗米道(ごとべいどう
)
」でした。五斗米道というのは張角(ちょうかく)が組織した「太平道(たいへいどう
)
」と類似した組織です。信者に米を五斗納品させる義務を負わせていたので上記のように呼ばれていました。

 

張魯

 

教祖の張魯の母は美人であり、真偽は不明ですが劉璋の父の劉焉とは男女の仲だったという説まであります。そのためなのか、劉焉は五斗米道と争うことは避けていました。

 

張魯の漢中王に反対する閻圃

 

ただし、劉璋は益州長官になると部下の龐義(ほう ぎ)を派遣して張魯と争うようになります。しかし、連戦連敗で勝つことはありませんでした。

 

益州内部分裂(1)龐義とのケンカ

 

それどころか、劉璋は部下の間にも亀裂が生じます。1人目は龐義。彼は劉璋とは昔から親交のある人物であり、劉璋が長安から脱出する時も子供たちを守ってくれたのでした。つまり、劉璋にとっては恩人でした。帰国後、劉璋は龐義を巴西太守に任命して恩を返します。しかし龐義は権力を笠に着て傲慢な振る舞いが目立つようになりました。

 

敗北し倒れている兵士達a(モブ)

 

だけど、権力があるのと戦が得意のは話が別。龐義は張魯との戦で連戦連敗!さらに、龐義が張魯に対抗するために兵士を募集していると、龐義が反乱を計画していると訴える人が出ます。上記の事が原因で2人の間に亀裂が生じます。最後は他人から説得された龐義が「お騒がせしました」と謝罪して仲直りします。

 

益州内部分裂(2)趙韙の反乱

 

劉璋と龐義は仲直りしますが、どさくさに紛れて反乱を起こした人物がいます。その人物は趙韙(ちょうい)。彼は劉焉の時から仕えており、劉璋を益州長官に擁立したのも彼でした。趙韙が反乱を起こした目的は分かっていませんが、おそらく劉璋では劉焉ほどの力は無いと思って見切りをつけたのでしょう。

袁術と曹操と黄巾賊

 

劉焉は生前、益州で暴れ回った黄巾軍や異民族を鎮圧して自分の私兵としてまとめました。これは「東州兵(とうしゅうへい
)
」と呼ばれています。曹操の「青州兵(せいしゅうへい)」と似ています。

 

だが劉璋が長官になったばかりの頃、思った以上に彼らを制御出来ませんでした。誰だって責任者になったばかりの頃は戸惑う者でしょう。趙韙はその弱点を突いて反乱を起こしました。しかし、東州兵は趙韙に加担せずに劉璋に味方して奮戦。趙韙を討ち取ってしまいます。

 

同年小録(書物・書類)

 

この反乱の顛末を記した『英雄記』には詳細なことは何も書かれていません。東州兵なりに思うことがあったのかもしれません。それとも劉璋が東州兵を上手に買収したのでしょうか?何も記されていないので闇の中・・・・・・

 

張魯の母殺害

王印を発見し、張魯を漢中王になるようすすめる部下たち

 

建安5年(200年)に五斗米道の張魯は独立を宣言。ここに漢中を勝手に「漢寧(かんねい)」と改称します。怒った劉璋は張魯の母と弟を捕縛して処刑。前述したように張魯の母は劉焉の愛人と推測される存在。いずれは劉璋に対しても政治介入をしてくるのは目に見えています。もしかしたら、この時期には介入していた可能性が高いです。つまり劉璋は彼女に消えて欲しかったのです。

官渡の戦い 騎馬兵

 

この劉璋による張魯の母と弟の殺害事件により益州は真っ二つ。まるで東西冷戦状態のようになります。建安5年(200年)といえば曹操と袁紹(えんしょう)の決戦(官渡(かんと)の戦い)が行われていましたが、益州でも小さな戦いが行われていたのでした。

 

三国志ライター 晃の独り言

三国志ライター 晃

 

劉璋の父の劉焉は劉璋の兄の益州長官を継がせるつもりだったと考えられます。しかし、劉範が不慮の死を遂げたことから劉璋に継承権が回ってきました。

 

劉璋にアドバイスをする張松

 

緊急事態での継承であったことから、劉璋はおそらく後継者としての政治勉強が十分ではなかったのでしょう。だから、張魯との外交・戦争で苦戦したり自分の部下の制御が上手に出来なかったのでしょう。

 

劉備に降伏する劉璋

 

『三国志演義』では劉璋=ダメ君主というレッテルを貼っていますが、継承経緯を考えれば仕方ないことだったのかもしれません。

 

※参考文献

・狩野直禎「後漢末地方豪族の動向―地方分権化と豪族―」(中国中世史研究会編『中国中世史研究』 東海大学出版会 1970年所収)

・満田剛「劉焉政権についてー後漢末期の益州と関中・河西回廊」(『創価大学人文学論集』29 2017年)

 

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民間伝承の三国志

 

 

 

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晃(あきら)

晃(あきら)

横山光輝の『三国志』を読んで中国史にはまり、大学では三国志を研究するはずだったのになぜか宋代(北宋・南宋)というマニアックな時代に手を染めて、好きになってしまった男です。悪人と呼ばれる政治家は大好きです。
         好きな歴史人物:
秦檜(しんかい)、韓侂冑(かんたくちゅう)、 史弥遠(しびえん)、賈似道(かじどう) ※南宋の専権宰相と呼ばれた4人です。
何か一言: なるべく面白い記事を書くように頑張ります。

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