建安17年(212年)に宗教団体「五斗米道」の張魯の攻撃から守ってあげることを口実に劉備は、劉璋が守備している益州に侵攻します。この時、軍師の龐統から劉璋の暗殺を提案されますが劉備は拒否。
『三国志演義』で龐統と魏延はグルになって、酒宴の席で劉璋の暗殺を企みます。ところで、龐統と魏延が殺そうとした劉璋とは、どんな人物でしょうか?
今回は正史『三国志』をもとに劉璋について解説致します。
この記事の目次
漢王朝の末裔
劉璋は荊州江夏郡竟陵県の出身であり、前漢(前202年~後8年)の第6代皇帝景帝の子の劉余の子孫です。ちなみに、荊州の長官である劉表も同じ子孫でした。
ただし、劉表は漢王朝の子孫という証拠が何もありませんので間違いなく「自称」です。劉璋は劉備や劉表と違い、一族に関して史料が残っているので、彼はおそらく漢王朝の末裔と考えられます。
小説の伏線
劉璋は益州の長官である劉焉の末息子です。劉焉と言えば『三国志演義』で劉備が黄巾軍討伐のために仕えた幽州の長官でした。
だが、それは小説の虚構。劉焉は幽州の長官になった記録は正史にありません。あれは将来、劉備が劉焉の息子の劉璋の益州を奪取するという伏線です。羅貫中も憎い演出をしますね(笑)
献帝に仕える劉璋
話を戻します。劉璋は若い時は父親の命令で長安の献帝に仕えていました。彼1人だけなのかと思ったら、兄の劉範・劉誕・劉瑁も一緒です。しかも劉範は劉焉の後継者でした。
いくらかわいい子には旅をさせろとはいえ、後継者を迂闊に外に出すものではありません。それどころか当時の長安の政治を牛耳っていたのは、董卓軍の残党である李傕と郭汜です。何かあったら一大事でした。ところが劉焉には狙いがありました。
馬騰・韓遂と一緒に長安を襲撃を計画するも・・・
興平元年(194年)に劉焉は長男の劉範や他の朝臣と連絡をとって、西涼の馬騰・韓遂と連携して李傕・郭汜を倒す計画を立てます。危険性が高いことから劉焉配下の王商が諫めますが、劉焉は聞き入れません。計画はそのまま実行に移されます。
もしこの計画が成功したら、献帝を担ぎ出すのは曹操ではなく劉焉だったかもしれません。または、劉焉の王朝が誕生したかもしれません。
だけど簡単にいかないのが世の常です。馬騰軍の進軍が李傕たちに漏れてしまい、長安襲撃計画が発覚!劉璋の兄の劉範・劉誕は殺されました。馬騰・韓遂は郭汜・樊稠により敗北。連合軍は壊滅しました。
三男の劉瑁と末っ子の劉璋は命からがら長安から脱出に成功して、益州までたどり着きます。長男と次男を一気に失い、計画も頓挫した劉焉はショックだったのか間もなくこの世を去りました。
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