法正は字を孝直と言い元々は雍州出身の人物です。
若い頃に故郷で飢饉に直面したので、食糧を求めて同郷の孟達と共に益州に流れて来たという異色の経歴を持っていました。ところが法正は劉璋政権下の益州で全く出世できず、逆に燻ぶっていた法正の才能を高く買ったのは、張魯討伐の名目で劉璋に招かれた劉備でした。
そして法正は劉備に恩を返すように曹操の内心を見抜いた必殺の策を与え、夏侯淵を討ち滅ぼし漢中奪取に成功するのです。
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出世できない法正に転機をもたらした劉備
若い頃に孟達と共に益州に入った法正は不遇でした。仕官するまで、かなり長期待たされてから、ようやく新都令となり、その後軍議校尉になりましたが、使ってもらえず、おまけに同じ雍州から来た仲間に品行の悪さを言い触らされて、出世の望みを絶たれ、益州人でウマがあった張松と劉璋の悪口を言って憂さを晴らしていました。
しかし、たまたま張松が曹操に冷たく扱われた途中、荊州に立ち寄り劉備に厚く遇された事から、張松は劉備を張魯の盾として使うよう劉璋に進言、法正は劉備を益州に呼んでくる係を劉璋に命じられます。
法正は、なんで俺がと言いながら、嫌々荊州まで行きますが、出会った劉備の力量に惚れて配下になり張魯討伐を理由に劉備を益州に引っ張りこみ、なんやかやで劉璋を倒し法正は謀主として、劉備の軍略を一手に引き受けます。その頃、劉備は軍師の龐統を失っていて法正が入ったのは天の助けでした。
曹操が巴蜀に攻め込まずに帰った理由を見抜いた法正
ところが、劉備がようやく益州を定めてから2年後に曹操は漢中の張魯討伐に向かい、たった一回で張魯を降して漢中を支配します。劉備は、もしやそのまま巴蜀まで南下するのかと怯えてガクブルでしたが、なおも巴蜀まで攻めるべしという司馬懿の意見を抑え、曹操は、「欲張るのはよくない節度を知るべし」と鄴に帰ってしまいました。
劉備以下、やれやれ助かったと思っている所で法正は曹操の異変に気が付いていて、
「曹操が、益州を取らずに夏侯淵・張郃を漢中に留めておいて、自分は北に還ったのは、その知力が及ばなかったり実力が不足しているのではなく、きっと国内で後継者争いか何かを抱えているせいです。今、夏侯淵や張郃の才略を見てみると、曹操の代わりなどは到底勤まりません。兵を挙げて出撃すれば必ず漢中を手中に出来ましょう」と劉備に献策しました。
当時、曹操の急な退却の理由を、このように見抜いた人物は、蜀には法正以外いませんでした。そして、後継者問題が一段落するまで曹操は戻ってこないと見越した法正は今のうちに兵を挙げて、夏侯淵と張郃を討ち、漢中を支配するように進言したのです。
益州は漢中を陥落させてこそ持久できる
劉備は龐統の助けで巴蜀は取りましたが、ここを本拠地として曹操に対抗するには、益州の玄関口である漢中を落とす必要がありました。巴蜀と漢中が一体になってこそ蜀は高い防御力を発揮できるのです。
法正は漢中奪回後のプランを以下のように言います。
「漢中を落としたなら、農業を盛んにして兵糧を積み上げ敵国に隙が出来るのをひたすらに狙います。大きなチャンスがあれば曹操の支配を覆して漢室を回復させ、中くらいの成功でも、雍州と涼州に領土を広げていき、どうにもならなくても、要害を堅く守り、国を長く保つ事が出来ます。これは天が与えたチャンスで、失ってはいけません」
この考え方は部分、部分で、諸葛亮も姜維も費禕も、ずーっと後の鍾会も共有しています。鍾会のクーデターは、法正のこの考えそのままだった気がしますけど・・
定軍山で夏侯淵を斬り捨てる
西暦218年、劉備は法正の進言に従い出陣して漢中の拠点の陽平関を目指し、別動隊として呉蘭、雷銅、張飛、馬超を派遣して武都を攻略させます。武都では、曹休を事実上の大将に曹洪、曹真が迎撃、張飛の囮攻撃は失敗し、雷銅が戦死、曹洪の軍勢に大敗した張飛と馬超は逃げ出します。
しかし別働隊の活躍で劉備の本隊5万は陽平関を襲撃して占拠し、陳式に軍営を10余り造らせ陽平関に繋がる馬鳴閣の街道を遮断しました。
翌年、劉備軍本隊5万は、定軍山に進撃し張郃の1万の軍勢に対して、兵を10部隊にわけて夜襲を掛けて休ませない方法を取ります。張郃はこの攻撃に耐え抜きますが、劉備が走馬谷の陣を焼き払って、東の陣を守る張郃を攻撃すると張郃は劣勢になりました。
夏侯淵は、張郃のピンチに自軍の半分を派遣して救援します。法正はこの隙を逃さず、黄忠に夏侯淵本陣から南へ15里離れた場所にある逆茂木を焼き払わせます。そこで夏侯淵が400騎を引き連れて自ら修理に来ると、黄忠は山の頂上から勢いをつけて数千の騎兵で駆け下り、麓の夏侯淵の首を斬り飛ばしました。
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