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この記事の目次
王允に降伏・・・・・・本心は
初平3年(192年)に董卓は王允・呂布の手により殺害されました。胡軫はこの時、同僚の楊定と一緒に降伏したようです。
しかし、胡軫と楊定は王允と以前から馬が合いません。王允も呂布と同じ、併州の出身です。王允と呂布が手を組んで董卓を殺害したのも同郷関係によるものです。
王允に降伏するのは呂布に降伏するのと一緒であると、胡軫は考えたでしょう。正史『三国志』に注を付けた裴松之が採用した『九州春秋』という史料によると、王允は董卓の残党である李傕が反乱を起こすと、胡軫と楊定を呼び寄せます。
李傕の懐柔の依頼なのですが、王允は穏やかな顔つきもせずに「さっさと行って李傕たちを呼んでこい」と胡軫たちに「命令」したのです。
よそ者は怖い!
出陣した胡軫・楊定・徐栄でしたが、胡軫と楊定は李傕たちと戦う気なんてありません。それどころか、すぐに降伏。彼らと合流すると王允・呂布がいる長安を攻撃します。ちなみに徐栄はこの時、殺害されています。徐栄も元・董卓配下の将軍であり、武勲も多い人物でした。そんな彼がなぜ殺されたのでしょうか?
理由は徐栄の出身地です。徐栄の出身地は幽州であり胡軫・楊定、その他の董卓軍残党からすればよそ者。彼らからすれば、よそ者はいつ呂布のようなことをするか分からないのです。可哀そうなことに徐栄は猜疑心から消されたと考えられます。
無実の罪で人を死罪にする
王允を殺し、呂布を追い出した胡軫の詳細な事績は正史『三国志』には何も記されていません。ただし、正史『三国志』に注を付けた裴松之が採用した『三輔決録注』という史料によると胡軫は司隷校尉になっていることが分かっています。司隷校尉は朝廷内の大臣を監察する職です。
しかしながら、胡軫は游殷という人物を無実の罪で死罪にします。その罪について詳細なことは記されていません。本当に些細なことだったのでしょう。ちなみに、游殷は魏(220年~265年)の将軍であり、地方官として優れていた張既の才能を見抜いた人物でした。
天罰、胡軫!
だが、胡軫にも天罰が下ります。游殷の死から1か月程度で胡軫は病気になってしまいます。危篤になった胡軫は「私が悪かったです、游殷が亡者を連れてきた・・・・・・」とうなされながら、亡くなりました。享年不明。話を聞いた人々は、「游殷は生きている時は人物を見分けて、死んでは尊い精神を持っている」と感心したそうです。
三国志ライター 晃の独り言
今回の記事で胡軫がただの一般武将でないことが判明しました。
読者の皆様もこれからはKOEIの「三国志」をプレイする時は胡軫を思う存分使ってください。私もそうしようと思います。ちなみに私はシュミレーションゲームは苦手であり、何度も途中で挫折しています。1番長く続いたのは「中原の覇者」というゲームでした。あのゲームは面白かった記憶がありますし、ものすごくハマりました!
文:晃
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