「漢という言葉が似あう武将について読者の皆さんは、誰を思い浮かべますか?関羽・張飛・趙雲・夏侯惇・呂布・・・・・・たくさん想像されると思います。
私は呂布配下の高順を想像します。彼は主君である呂布に雑に扱われながらも、不満を述べずに最期は潔く武人らしく斬られていきます。
今回は高順が主人の呂布を守った郝萌の反乱について語ろうと思います。実はこの反乱には、ウラがあったのです。
この記事の目次
高順は董卓の残党か?
まず高順について。高順は出身地不明であり、いつ呂布の配下になったのか分かっていません。亡くなった建安3年(198年)時点での官職名は「中郎将」であったことから、朝廷に仕えていた形跡があります。
つまり、彼は董卓配下の残党と推測されます。董卓の死後、張遼と一緒に呂布についてきたのでしょう。
丹陽兵の反乱
高順が史料で最初に登場するのは建安元年(196年)に呂布が劉備から徐州を奪った時のことです。
正史『三国志』に注を付けた裴松之が持って来た『英雄記』という史料によると、劉備から徐州を任された張飛は同僚の曹豹とケンカになり彼を殺害。
元・陶謙配下の丹陽兵は呂布に城を奪うことを提案。誘われた呂布は、さっそくレッツ・ゴ―!こうして徐州城は、あっさりと陥落!城は呂布のものになりました。
郝萌の反乱
ところがしばらくすると、城内で再び反乱が起きました。反乱の首謀者は河内出身の武将である郝萌でした。『三国志演義』では「八健将」の序列3位ですが、史実では呂布配下の反乱者です。何が起きたのか分からなかった呂布は、軍装も整えずに妻を連れて便所から脱出。かけつけた高順は「呂布将軍、謀反人に何か特徴はありましたか?」と尋ねました。
呂布は「河内のなまりがあった」と答えます。郝萌と気付いた高順は突撃すると反乱軍を蹴散らしていきました。形成不利と感じた郝萌配下の曹性は裏切って、郝萌に一騎討を挑みました。
「裏切ったな、この野郎!」とキレた郝萌は曹性を斬るも、曹性だって負けていません。郝萌の片腕を斬り落としてみせます。醜い争いをしているうちに高順は郝萌を討ちました。
不公平な恩賞
傷を負いながらも担ぎ込まれた曹性を呂布は尋問しました。曹性は郝萌が袁術の命令を受けたことを告白。
呂布はさらに、「計画を立てたのは誰と誰だ?」と聞きました。
曹性は「陳宮です」と答えます。周囲の人は陳宮の顔色が真っ赤になっていたことから、間違いないと気付きます。だが、呂布は陳宮が呂布軍の大将であったことから不問にしました。
曹性は普段から呂布は「神の加護」があると言って郝萌を諫めていたが、郝萌はそれが分からずに反乱を起こしたと証言しています。媚びを売っているようにしか聞こえない。実に嘘くさい・・・・・・
呂布はそんな曹性が可愛かったのか、傷が治ると残った郝萌の軍の統率を任せました。一方、呂布を助けてあげた高順にはなんの恩賞もありませんでした。本当に世の中は理不尽です!
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