高順が鎮圧した郝萌の反乱の真の首謀者は袁紹・張楊だった?

2020年7月17日


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郝萌の反乱の真の首謀者(1P目)

 

監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。戦略設計から実行までの知見を得るためにBtoBプラットフォーム会社、SEOコンサルティング会社にてWEBディレクターとして従事。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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反乱にはウラがある?

袁術

 

この反乱にはウラがあると私は考えています。曹性は袁術のゴー・サインで行ったと言っていますが、私は違うと考えています。理由は後述します。

 

呂布に従う陳宮

 

さて不思議なことに、呂布が「反乱の計画を立てたのは誰と誰だ?」と聞いても曹性は陳宮1人しか答えていません。それどころか計画立案者の陳宮には一切、処罰無し。その理由は軍の大将だから・・・・・・全く理解が出来ません。

 

呂布は計画立案者が陳宮以外にも存在していたのが、分かっていたのに尋ねたのではないでしょうか?

 

呂布に暗殺される董卓

 

探る手掛かりは郝萌の出身地にあります。初平3年(192年)に董卓を殺害した呂布は袁術(えんじゅつ)袁紹(えんしょう)に保護を求めますが、大して相手もされず、逆に殺されそうになります。呂布が次に頼ったのは河内太守の張楊(ちょうよう)でした。

 

呂布暗殺指令

李カク(李傕)

 

張楊は呂布と同じ幷州出身です。呂布が張楊を頼ったのは同郷関係というものでした。ところが、張楊は董卓軍残党の李傕(りかく)郭汜(かくし)から勅書をもらっていたのです。

同年小録(書物・書類)

 

中身は呂布暗殺指令です。朝廷からの命令なので、従うのが義務。張楊と部下たちは呂布を殺そうとしました。

 

先述した『英雄記』という書物によると呂布は張楊たちの行動に勘付いていたいたらしく、「自分を殺せば同郷人を殺したと世間から非難を受けるぞ。ならば、私を李傕・郭汜に売ったらどうだ?」と脅しをかけました。世間体のことを言われた張楊は、さすがに気まずくなり呂布を保護することになりました。

 

郝萌は張楊配下だったか?

曹操を裏切る陳宮

 

興平元年(194年)に呂布は張邈(ちょうばく)陳宮(ちんきゅう)からの誘いで曹操(そうそう)の領地である兗州を奪うことにします。そこで張楊のもとを立ち去りました。私の推測なのですが、この時に張楊は兵士を呂布に分けたと思われます。きっと、その中に郝萌がいたと思われます。

 

邪道妖術の類を好んだ李カク(李傕)

 

郝萌は李傕・郭汜からの命令である呂布暗殺の実行役として選ばれた人物だったのです。だが、計画は高順の奮戦と配下である曹性の裏切りにより失敗・・・・・・

献帝を保護する曹操

 

また、反乱を起こした建安元年(196年)には依頼人である李傕・郭汜も曹操が後漢(25年~220年)第14第皇帝献帝(けんてい)を保護したことで没落。張楊が同郷人である呂布を狙う必要はなくなったのです。

 

暗殺のゴー・サインを出したのは袁紹だった?

袁紹

 

さて、私は暗殺にゴー・サインを出したのは袁術とは違うことを言いました。なぜなら私は袁紹(えんしょう)と考えています。

 

袁術と袁紹

 

それは呂布の命を狙っていたのは袁術よりも袁紹の方だったからです。呂布は張楊のもとに来る前に袁紹に保護を求めますが、態度がよろしくなかったので袁紹から刺客を向けられた過去がありました。また、張楊は袁紹系の軍閥の1人であり、袁紹から依頼されてもおかしくないと推測されます。

 

袁術

 

「でも、史料には袁術と書いているぞ!」と言いたい人もいるかもしれません。おそらく、それは「誤写」と思います。

 

晋の陳寿

 

著者の陳寿(ちんじゅ)が執筆した当初は袁紹と書かれておりその後、様々な人が転写するにつれて「袁術」と誤写した可能性があると考えています。昔の史料は手書きであり、誤写はよくありました。実際に現在出版されている翻訳本の正史『三国志』も誤写している地名をそのまま翻訳しています。だから私は暗殺のゴー・サインを出したのは袁紹と考えています。

 

三国志ライター 晃の独り言

三国志ライター 晃

 

先日、Youtubeにアップされた「呂蒙の本当の後継者」という話で私は朱然(しゅぜん)を呉の四姓の1人と解説しました。

 

 

翌日、動画のコメントを読んでいると視聴されたモッチー様から以下のコメントが届いていました。

 

〝呉の四姓だった朱氏は朱桓の家の方。朱然と養父となった朱治は丹陽郡出身で呉郡の出身ではない。〟

 

スイマセン、逆で覚えていました。モッチー様、ご指摘ありがとうございました。今後も何かありましたら、ご指摘をお願いしたします。

 

文:晃

※参考文献

・石井仁「都督考」(『東洋史研究』51-3 1992年)

・林田慎之介『人間三国志 豪勇の咆哮』(初出1989年 後に集英社文庫 1992年)

 

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呂布

 

 

 

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晃(あきら)

晃(あきら)

横山光輝の『三国志』を読んで中国史にはまり、大学では三国志を研究するはずだったのになぜか宋代(北宋・南宋)というマニアックな時代に手を染めて、好きになってしまった男です。悪人と呼ばれる政治家は大好きです。
         好きな歴史人物:
秦檜(しんかい)、韓侂冑(かんたくちゅう)、 史弥遠(しびえん)、賈似道(かじどう) ※南宋の専権宰相と呼ばれた4人です。
何か一言: なるべく面白い記事を書くように頑張ります。

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