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この記事の目次
反乱にはウラがある?
この反乱にはウラがあると私は考えています。曹性は袁術のゴー・サインで行ったと言っていますが、私は違うと考えています。理由は後述します。
さて不思議なことに、呂布が「反乱の計画を立てたのは誰と誰だ?」と聞いても曹性は陳宮1人しか答えていません。それどころか計画立案者の陳宮には一切、処罰無し。その理由は軍の大将だから・・・・・・全く理解が出来ません。
呂布は計画立案者が陳宮以外にも存在していたのが、分かっていたのに尋ねたのではないでしょうか?
探る手掛かりは郝萌の出身地にあります。初平3年(192年)に董卓を殺害した呂布は袁術・袁紹に保護を求めますが、大して相手もされず、逆に殺されそうになります。呂布が次に頼ったのは河内太守の張楊でした。
呂布暗殺指令
張楊は呂布と同じ幷州出身です。呂布が張楊を頼ったのは同郷関係というものでした。ところが、張楊は董卓軍残党の李傕・郭汜から勅書をもらっていたのです。
中身は呂布暗殺指令です。朝廷からの命令なので、従うのが義務。張楊と部下たちは呂布を殺そうとしました。
先述した『英雄記』という書物によると呂布は張楊たちの行動に勘付いていたいたらしく、「自分を殺せば同郷人を殺したと世間から非難を受けるぞ。ならば、私を李傕・郭汜に売ったらどうだ?」と脅しをかけました。世間体のことを言われた張楊は、さすがに気まずくなり呂布を保護することになりました。
郝萌は張楊配下だったか?
興平元年(194年)に呂布は張邈・陳宮からの誘いで曹操の領地である兗州を奪うことにします。そこで張楊のもとを立ち去りました。私の推測なのですが、この時に張楊は兵士を呂布に分けたと思われます。きっと、その中に郝萌がいたと思われます。
郝萌は李傕・郭汜からの命令である呂布暗殺の実行役として選ばれた人物だったのです。だが、計画は高順の奮戦と配下である曹性の裏切りにより失敗・・・・・・
また、反乱を起こした建安元年(196年)には依頼人である李傕・郭汜も曹操が後漢(25年~220年)第14第皇帝献帝を保護したことで没落。張楊が同郷人である呂布を狙う必要はなくなったのです。
暗殺のゴー・サインを出したのは袁紹だった?
さて、私は暗殺にゴー・サインを出したのは袁術とは違うことを言いました。なぜなら私は袁紹と考えています。
それは呂布の命を狙っていたのは袁術よりも袁紹の方だったからです。呂布は張楊のもとに来る前に袁紹に保護を求めますが、態度がよろしくなかったので袁紹から刺客を向けられた過去がありました。また、張楊は袁紹系の軍閥の1人であり、袁紹から依頼されてもおかしくないと推測されます。
「でも、史料には袁術と書いているぞ!」と言いたい人もいるかもしれません。おそらく、それは「誤写」と思います。
著者の陳寿が執筆した当初は袁紹と書かれておりその後、様々な人が転写するにつれて「袁術」と誤写した可能性があると考えています。昔の史料は手書きであり、誤写はよくありました。実際に現在出版されている翻訳本の正史『三国志』も誤写している地名をそのまま翻訳しています。だから私は暗殺のゴー・サインを出したのは袁紹と考えています。
三国志ライター 晃の独り言
先日、Youtubeにアップされた「呂蒙の本当の後継者」という話で私は朱然を呉の四姓の1人と解説しました。
翌日、動画のコメントを読んでいると視聴されたモッチー様から以下のコメントが届いていました。
〝呉の四姓だった朱氏は朱桓の家の方。朱然と養父となった朱治は丹陽郡出身で呉郡の出身ではない。〟
スイマセン、逆で覚えていました。モッチー様、ご指摘ありがとうございました。今後も何かありましたら、ご指摘をお願いしたします。
文:晃
※参考文献
・石井仁「都督考」(『東洋史研究』51-3 1992年)
・林田慎之介『人間三国志 豪勇の咆哮』(初出1989年 後に集英社文庫 1992年)
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