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この記事の目次
再び袁術配下を説得
建安5年(200年)に孫策が殺害されて、それまで孫策と手を組んでいた李述が孫権に対して反抗的な態度を示します。李述は曹操が派遣した揚州刺史の厳象を殺害。
さらに元・袁術配下と手を組んで各地を荒らします。曹操は当時、袁紹と官渡で戦っており動けません。曹操は「劉復ならば東南のことを任せれる」と思って、彼を揚州刺史に任命して派遣。劉馥は任地に赴くと元・袁術配下と交渉を行い手なずけることに成功。その後、李述は孫権により討たれました。
劉馥の合肥城整備
劉馥が着任当初、合肥城は空城であり整備がされていませんでした。そこで劉馥は州庁(役所)を設置してあげます。劉馥の政治は極めて良かったらしく、数年が経過して政治が安定してくると周囲の流民噂を聞きつけて、次々と移住しようとしてきます。その数は5ケタ・・・・・・つまり、少なくとも10万です。いつの時代でもよくある話です。
だが、人口が増えるだけでは土地が発展するわけありません。劉馥は人々に働く場を与えます。屯田を拡大して堤防の修理も行い、さらに合肥城の城壁を高くして戦争に対しての備えをしました。また、学校の整備をして人々の教育に努めます。
劉馥の遺産 孫権を苦しめた合肥城
こうして揚州の発展に尽力した劉馥でしたが、残念ながら建安13年(208年)にこの世を去りました。彼が亡くなると、待ってましたとばかりに孫権は合肥城に攻めかかります。これが有名な合肥の戦いです。
ところが合肥城の守りは固く簡単には攻め落とせません。孫権は生涯、合肥城を陥落させることが出来なかったのでした。劉馥が作った堤防は、陳寿が正史『三国志』を執筆していた西晋時代も残っていました。
劉岱 兗州刺史の人とは別人
劉氏には、もう1人劉岱という人物がいます。名前を聞くと兗州刺史の劉岱と思うかもしれませんが、同姓同名の別人です。劉岱は正確な出身県は分かっていませんが、沛国出身であることから劉夫人や劉馥と血縁は遠いですが、同族とみて間違いないでしょう。
建安4年(199年)に後漢(25年~220年)第14第皇帝献帝の密命を受けた董承は、劉備や仲間と一緒に曹操の暗殺を計画。
しかし、勘の鋭い劉備は都の許昌から脱出します。この時に曹操から劉備討伐の命令を受けたのが劉岱と王忠でした。
劉岱と王忠は劉備と戦いますが、残念ながら勝利を得れずに帰ることになりました。正史『三国志』に注を付けた裴松之が史料として採用した『献帝春秋』によると劉備はこの時、「曹操が来るなら話は別だが、お前たち程度のレベルの連中が100人来ても大丈夫だ!」と豪語したそうです。劉岱はその後も曹操に付き従い、司空長史にまで昇進。現代で例えるのなら事務次官クラスまでなったのでした。
『三国志演義』の劉岱
『三国志演義』でも劉岱は登場しています。曹操と親族関係である点は説明されていません。また、兗州刺史の劉岱と同一人物とされているようです。
この点から『三国志演義』の作者が知識階級ではないと分かります。内容は正史『三国志』と一緒で曹操からの命令を受けて、王忠と共に劉備討伐に向かいます。
だが、2人はいつまでたっても出陣せずに、のんびりしているので曹操の怒りを買います。結局、尻を叩かれたことにより最初に王忠が出陣!ところが、王忠は関羽にあっさりと捕縛・・・・・・
関羽の次に登場したのは張飛です。まともに闘っては勝ち目がないと思った劉岱は陣に閉じこもってしまいます。
いくら罵声を浴びせても出てこないので、張飛は仕方なく酒盛りをして休憩します。しかし酒盛りの最中に張飛は、部下の1人に暴力を振るってケガをさせました。暴力を振るわれた部下は劉岱に降伏。張飛の陣に夜襲をかけることを提案します。
だが、これは張飛の罠でした。実は酒盛りも暴力も部下と示し合わせた芝居だったのでした。張飛の陣には伏兵が配置してあり、劉岱はあっさりと捕まります。捕縛された劉岱と王忠は曹操のもとへ返されました。その後の2人の消息は不明です・・・・・・
三国志ライター 晃の独り言
曹操の側室である劉夫人は全く目立たない人物ですが、彼女の一族は曹操のもとで働き、立派な功績を挙げました。だが、彼らの業績を知っている人は今日では少ない・・・・・・正史『三国志』はマイナーな人物が多いです。私は出来ればそんな人物を詳細に扱っていきたいです。
※参考文献
・石井仁『魏の武帝 曹操』(初出2000年 後に新人物文庫 2010年)
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