正史三国志を書いた陳寿は蜀びいきであったと言われています。
それは元々、陳寿が滅ぼされた蜀の官僚であり、蜀にシンパシーを感じていたからとも言われます。しかし、一方で諸葛亮については、父親が街亭の敗戦に連座して諸葛亮に処罰されたので嫌っていて、その評価も辛辣とされています。
しかし最近、kawausoは正史三国志諸葛亮伝を読んでいて、陳寿は実は諸葛亮びいきなのではないか?という感想を持ちました。
この記事の目次
超不自然 諸葛亮伝に7年のブランク
陳寿が本当は諸葛亮びいきではないか?
kawausoがその疑問を抱いたのは、独立した列伝である正史三国志諸葛亮伝に、奇妙な7年の空白が存在しているからです。口で言うより文章で書いた方が早いので、その7年のブランクを書き出してみます。
建安16年(西暦211年)益州牧の劉璋が法正を派遣して劉備を迎え張魯を討伐を命じた。諸葛亮は関羽と荊州にいて留守を守った。劉備は葭萌より帰還して逆に劉璋を攻め、諸葛亮は張飛、趙雲らと軍勢を率いて長江を遡上。
各々分かれて郡県を平定劉備と共に成都を囲んだ。劉璋が降伏して成都は平定され、劉備は諸葛亮を軍師将軍とし左将軍府事に所属させた。劉備が外に出征する時、諸葛亮は常に成都を守り食料と兵を供給する任務についた。
ここまでが、建安19年頃までの出来事ですが、諸葛亮伝はここから一気に7年飛んで、建安26年から再開します。
建安26年(西暦221)群臣が劉備に皇帝即位を勧め、劉備は未だに許さなかった。
諸葛亮が説得するには「昔、呉漢・耿弇らが初めて世祖(光武帝)に帝位へ就く事を勧めた時、世祖は辞退する事4度を数えました。耿純が進んで言うには
「天下の英雄は伏して仰ぎ、望むものを所有したいと願うものです。
もし群臣に従わねば、彼らは明公を見限り、別の主を探して出ていくでしょう」
世祖は耿純の言葉が深いなぁ、深イイ話だなと感じて即位を受け入れました。
大体、こんな感じで劉備が成都を落とした辺りから、皇帝即位まで7年飛んでいます。その間の劉備の漢中王即位とか、樊城包囲戦とかすっ飛ばしているのです。
諸葛亮空白の7年は生臭い権力掌握の期間
どうして陳寿は諸葛亮の列伝から7年を削ってしまったのか?
この間、諸葛亮は冬眠でもしていたのか?いえ、もちろん違います。そこで、kawausoが正史三国志の他の部分を見てみると、この7年間はつまり、諸葛亮の権力掌握の7年だった疑惑が浮かんできたのです。
三国志蜀志の10巻は、劉封 彭羕 廖立 李厳 劉琰 魏延 楊儀で、途中で処罰された人々の列伝ですが、この中の最初の2名は、まさに諸葛亮空白の7年の間に諸葛亮の讒言により失脚したり処刑された人々でした。では、ここからは諸葛亮に追いやられた劉封と彭羕を見てみましょう。
諸葛亮の讒言が決め手になり死んだ2名
まず劉封ですが、こちらは関羽が樊城攻めで援軍を送るように伝令を出したのを、上庸も平定してばかりで安定していないとして断った為に劉備に疎まれ責められました。諸葛亮は劉封が勇猛果敢な人物であり、劉備の死後には制御できなくなると吹き込み処断する決心を促しています。
彭羕は劉備のお気に入りで成都を攻略した後は、治中従事に任命して傍に置いて重用しましたが、それまで人並み以下の地位だった彭羕は増長して尊大な振る舞いが多くなり、諸葛亮は表面上は尊重したものの、内心では嫌っていました。
そこで劉備に密かに讒言するには
「彭羕は志が高いので、先々トラブルメーカーになりますよ」
これは、彭羕が劉備の地位に取って代わるつもりだと仄めかしているようにも取れ、劉備は諸葛亮を尊敬していたので、次第に彭羕を疎んじ、素行なども考えて江陽太守に左遷しました。
いきなり出世の梯子を外され、ヤケになった彭羕は、馬超に謀反をほのめかし、それを馬超が劉備にチクって獄に入れられ誅殺されます。諸葛亮の讒言2連発ですが、生々しい限りです。もし、この2つの逸話を諸葛亮伝に入れたら、諸葛亮の印象は随分変わるとkawausoは思うのですが、皆さんはどう思いますか?
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