今回は晋の武帝、司馬炎と、その皇帝が行った政治からあることを(勝手に)学んでいきたいと思います。
「やるだけやったら政治に飽きたみたい」とか「ゴニョゴニョばかりではいけないと思います」とか「息子の方が凡愚じゃないか」とかごく一部の界隈で言われている司馬炎ですが(偏見)、実はその政治からとある「妙」を学ぶことができるのです。
そんな「妙」をここではご紹介しましょう。
この記事の目次
西晋の初代皇帝・武帝の誕生
司馬炎は西晋の初代皇帝であり、三国志でも三国志演義でも有名な司馬懿の孫に当たります。
また晋の武帝であり、呉(満身創痍)に止めを刺して三国時代の終焉を迎えさせた人物でもあります。
その位に就いたのは265年。
元帝・曹奐から禅譲を受けて晋王朝を開いたのですが、この元帝は司馬炎の父である司馬昭による傀儡であり、名実ともに司馬家によるクーデターがなったとも言えるでしょう。ともあれここから司馬炎の天下が始まっていきます。
基盤強化を図る司馬炎
皇帝となった司馬炎は、まず基盤を整えることを始めました。その一環として行われたのが、一族に兵や土地を分けることです。こうして司馬一族は各地に王として配置されました。
魏王朝の弱点を熟知した司馬炎
ここで魏の政治を思い出した人も多いでしょう。魏は一族に余計な権力を持たせないようにしてしまったことで、結果的に司馬一族にその地位を乗っ取られることになりました。ただしこの司馬炎のやったことが後々にどうつながるかは……また後でお話しましょう。
司馬炎の天下統一と三国時代の終焉
そして基盤を固めた司馬炎は279年、呉攻めを開始します。
翌年には呉を滅ぼし、天下統一を果たしました。既に蜀も魏もありませんが、最後の呉が滅んだことで三国時代はここで終焉となります。
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貴公子と呼ばれた司馬炎の末路
そんな司馬炎は若かりし頃から貴公子と呼ばれ、優秀であったのですが、統一して気が抜けたのか、それともある意味で皇帝の別のお仕事に夢中になったのか、その後は総勢一万人の女性を迎えた巨大な後宮を作って政治に関心を失っていきます。
この人数全てが妻という訳ではありませんが、それでもとても大きな規模なのは間違いありません。これが全てつながったという訳ではありませんが、司馬炎の死後には後継者問題で八王の乱が起き、五胡十六国時代が幕開いてしまうのですから……歴史は面白いですね。
司馬炎の政治
さてここで前述したように、司馬炎の政治を見ていきましょう。見るべきは基盤を整えるために、一族に力を持たせたこと。これは魏のやり方とは逆と言っても良いやり方です。
恐らくですが魏の国が自らの家に乗っ取られていく様を間近で見ていたからこそ、司馬炎は力を分散させたのでしょう。
この点の興味深いところは、魏のやり方も実は同じようなやり方だったということです。魏が権力を集中したのは、漢王朝が権力を分散させてしまったことから学び、同じようにならないようにと配慮されてやったこと。
ここそ正に政治の「妙」。過去の反省を生かした結果、新たな問題が出てくる……しかも繰り返す……これは歴史から見てこそ分かることです。司馬炎の政治は、そういう面から見てもとても興味深いところです。
司馬炎の政治は失敗か?
では司馬炎の政治は失敗したのか?という点ですが、筆者は「良くやった方」だと思います。というのも、司馬炎の政治は父親である司馬昭の政治を受け継いだものだからです。
司馬昭の政治
司馬昭の政治は、例えば諸葛誕らの反乱を鎮圧した事後処理で首謀者を処刑しただけで他は全て赦免したように「許すこと」に「肝」があります。
習鑿歯が「天下の人は司馬昭の武威を恐れると同時に徳義を慕うことになった」と評価したように、どういう意図があったかは分かりませんが、この政治方針を司馬炎は受け継ぐ、受け継がざるを得ないのです。
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受け継がなければならなかったこと
司馬炎が司馬昭の政治を受け継いでいるというのが良く分かる例が、呉征伐に反対した賈充に呉征伐後に恩賞を与えたことでしょう。こういった方針で司馬炎は政治を行っていきました。そしてこれらの政治は、司馬炎が生きてる間は上手く機能していたと思われます。
そういう意味では司馬炎は何かに特化したと言うならば、バランスを取ることに特化していた、もしくはそうしなければならない政治形態を上手く回すことができるだけの能力を持っていたと思うのです。なのでその後の展開全てが司馬炎の政治が悪かったから……というのは少し言い過ぎではないかな、と筆者は思いますね。
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「盛り塩」の語源
最後にちょっと小話を。司馬炎が巨大な後宮を築いたことは話しましたが、流石にこんな膨大な数を相手にするというのはインドの神様くらいしか無理な話。そこで司馬炎は夜伽の度に羊に引かせた車に乗って、止まった部屋の女性と夜を過ごしました。
このため愛妾が部屋の前に塩を盛って羊の足を止めさせた、というのが盛り塩の語源と言われています。これは羊がミネラルを塩から吸収するための行動であり、実際に牧場などで羊のために岩塩を置いておくという話があります。
恐らく習性から察されたものだと思いますが、この当時に羊の行動を理解していた女性がいるというのは凄い話。もしかしたら司馬炎もそういう「頭の良い女性」を探すための行動だったのかな……?というのは、ちょっと司馬炎に寄り添い過ぎの考えですかね?
三国志ライター センのひとりごと
その後のごたごたが印象強すぎるあまりに何だかんだ言われてしまう司馬炎ですが、彼自身の能力はそこまで言われるほど悪いものではないと思います。
ただ見ていくと彼の政治は、前者で失敗したと思われることを繰り返さないようにし、父の政治を何とか引き継ぎながらやっていった……けれど結果としてそれが、歴史として長い年月から見ると繰り返しの失敗、が目に付くのは興味深いところですね。
しかしそう思うとやはり……政治って大変なんだなぁ……と、いう感想しか出てこなくなるという、凡才の筆者なのでした。
参考文献:晋書文帝記 武帝紀
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