孟獲は三国志演義の登場人物かと思いきや、史実にも存在する人物です。しかし、三国志演義においてはだいぶ脚色されていて、多くの人々の孟獲イメージは三国志演義を元に作り出されました。
そこで、今回は史実と演義の両面から孟獲について解説してみましょう。
この記事の目次
史実と演義の孟獲をズバリ比較
孟獲の史実と演義における特徴を要約しました。
史実(正史三国志) | |
1 | 西暦223年、雍闓が劉備死後反乱を起こすと孟獲も加担 |
2 | 雍闓の命令で南中の人々を扇動して反乱に加担させた |
3 | 西暦225年雍闓が高定に殺害。孟獲がリーダーになる |
4 | 諸葛亮に何度も敗れ、ついには心服忠誠を誓う(七縦七擒) |
5 | 諸葛亮の部下として南中の治安安定に貢献 |
三国志演義 | |
1 | 南蛮王としてワイルドに登場。ヒャッハー! |
2 | 司馬懿の計略に乗り10万の軍で蜀を攻め諸葛亮に敗北 |
3 | 諦めずに朶思大王、木鹿大王、兀突骨を巻き込んで挑み何度も敗北 |
4 | 最後には諦めて諸葛亮に心服(七縦七擒) |
5 | 現地の民族の間では孟獲が諸葛亮を七度捕らえた伝承がある |
では、以後は孟獲について、もう少し詳しく解説します。
元々サブだった孟獲
孟獲は建寧郡の人で、三国志演義と違い蛮族ではなく漢民族だそうです。西暦223年、蜀漢を建国した劉備が病死すると、建寧郡の勢力は不安定になり実力者雍闓が孫権に接近し、蜀に反乱を起こします。
この時に、雍闓に加担して南中の人々に蜀に反乱を起こすように扇動したのが孟獲でした。三国志演義と違い、孟獲は首謀者雍闓の協力者として史実では登場しています。
雍闓死後にリーダーとなる
しかし、西暦225年、諸葛亮が南征すると雍闓が実力者の高定と内輪もめを起こし高定の部下に殺害されました。そしてリーダーとして孟獲が担がれ、以後は諸葛亮と戦う事になります。
孟獲は諸葛亮に敗れますが、敗北を認めず、
「私が敗れたのは蜀軍の陣容をしらないせいだ!
今は全て把握したから今度戦えば必ず勝つ事が出来る」と豪語します。
諸葛亮は面白いと言って孟獲を解放しますが、孟獲は何度戦っても諸葛亮に勝てず、七度目に諸葛亮に解放された時、もう逃げようとはせず、諸葛亮に心服する事を誓いました。
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実は八百長だった七縦七擒
しかし、いくら諸葛亮が気長と言っても、同一の敵を七度逃がす程、お人好しとも思えず、現在では、南中平定戦は、諸葛亮と孟獲があらかじめ示し合わせた八百長だとする説が有力です。
孟獲は、蜀には逆らっても無駄だという印象を住民にもたせるために、何度も敗北して見せ、蜀軍の強さをPRして住民反乱を抑止しようと考えたようです。そこから考えると孟獲は三国志演義のような脳筋ではなく、それなりに知略を使える人だったのでしょう。
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南中の名士として蜀に人材を派遣する
その後の孟獲は、蜀の南中支配の要として、
焦・雍・婁・爨・孟・量・毛・李のような南中の豪族と連携し、人材を推挙したり兵力を派遣したりする役割を担い、最終的には、御史中丞まで昇進したそうです。
こうしてみると史実の孟獲は序盤こそ反乱軍の1人ですが、雍闓が死んでリーダーになった辺りから諸葛亮と結ぶ事を決断した、なかなか目端が利く人と言えます。
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