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この記事の目次
死に際が似ている
関羽の率いていた荊州の兵は呂蒙の計略によって士気を失い、孤軍となった中で麦城に籠城します。
孫権が降伏勧告をすると偽って降伏を申し入れ、兵たちを解散して十数騎で敵陣突破を図るも失敗。最期は子の関平ともども斬首されます。
項羽は連戦による疲労や兵糧の不足から劉邦が持ちかけた天下を半分に分けるという提案に乗りますが、その後に虚を突いて攻め込んだ劉邦軍によって敗走。
垓下の戦いにおいて兵糧攻めや四面楚歌の故事にあるような心理戦によって兵の大半を失い末期はわずか28騎で敵陣に突撃をしています。どちらも計略によって兵を失い、最期は少数で戦って散っているという点が似ています。
性格と死後の扱いは異なる
関羽も項羽も傲慢な性格は似ていますが、関羽は立場が下のものに優しかったのに対し、
項羽は降伏した兵を殺す、残虐非道で粗暴な行いが多く見られます。
関羽は生前の徳の高さからか丁重に葬られていますし、死後も書物に登場するなどして人気が高まり、民衆から信仰されました。項羽はその首に恩賞がかけられていたために自害した後に身体を5つに切り刻まれていますし、諡号も贈られていません。
また、物語においても劉邦の敵役として悪玉のイメージが強いです。
仮に関羽が項羽の生まれ変わりとするなら、前世を反省した項羽が勉学に励むようになり、人に対しても多少は優しくなったという感じでしょうか。ただ、大量に人を殺した業からか生まれ変わった後も似たような最期となってしまいました。
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関羽と岳飛
もう一人、関羽の生まれ変わりと言われている人物に南宋時代の名将・岳飛がいます。
岳飛も国家の危機に際して義勇兵となり頭角を表しますが、宰相であった秦檜に反逆罪で殺されました。後年、冤罪が晴れたことで鄂王に封じられ、関羽と一緒に祀られるようになります。
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三国志ライター TKの独り言
どちらも忠義の士で民衆からの人気が高く、後年になって評価されていることが共通点です。生まれ変わりに関して言えば、岳飛は傲慢な性格という記述はないので関羽時代の性格による難を反省したのかもしれません。
しかし、項羽時代の罪は赦されないのか関羽と同じように子の岳雲と共に処刑されます。岳飛もどこかで生まれ変わって平和に暮らしているといいですね。
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