今回は八王の乱の逝かれたメンバーの一人、司馬瑋のご紹介です。司馬瑋はそのまま読むと『しばい』、ひいおじいちゃんである司馬懿と同じ読み方になる人物。
そんな司馬瑋は一体どんな人物でどんな活躍をするのか?(退場は決定事項)
それを今回は見ていきましょう。
※注意※胃もたれするほど「司馬」が出てきます。
楚王・司馬瑋
司馬瑋は司馬昭の息子、晋の最初の皇帝・司馬炎の五男。その誕生は271年の事でした。後の皇帝、司馬衷とは異母兄弟になります。
司馬炎の開いた晋王朝時代は晋族……ではなく、親族経営であり、皇族は優先的に王に封じられました。
司馬瑋が楚王に封じられたのは289年の事、まだ20代にもならぬ内に相応の地位に付けられたのです。
賈南風画策
291年、既に司馬炎はなく、新しく皇帝となったのは司馬衷。
しかし実際に権力を握っていたのは外戚の楊駿でした。
これを取り除こうとしたのは八王の乱のキーウーマンとも言える賈南風。
彼女は司馬一族に楊駿を取り除く計画を持ち掛け、それに乗ったのが司馬瑋です。司馬瑋自体も楊駿から警戒されていたものの、司馬瑋は自ら中央の役職を望み、渡りに船と楊駿はこの望みを叶えました。
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司馬瑋、クーデター開始
291年3月、クーデター開始。この際に司馬瑋は門を封じて楊駿を逃げられないように抑え、その一族はことごとく誅殺されます。そうして新しい政治が始まるのですが……そこに司馬瑋の立つ場所はありませんでした。
政治の中心に立った汝南王・司馬亮と衛瓘は司馬瑋を粗暴で気性の荒い人物として好ましく思っておらず、中央から遠ざけようとします。これに怒った司馬瑋は賈南風と手を組み、皇太子の教育係として洛陽に残るようにしました。
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クーデター開始(2回目)
手を組んだ司馬瑋、そして賈南風にとって既に司馬亮と衛瓘は邪魔者。そして291年6月、三ヶ月ぶりのクーデター開始。
賈南風は恵帝・司馬衷に「司馬亮と衛瓘は謀反を企んでいます」と言い、司馬衷はこれを受けて秘密裏に詔を出しました。
これを受けて司馬瑋は二人を逮捕、処刑しました。
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