合肥の戦いでは、魏の楽進・張遼らが圧倒的な呉の大軍をわずかな兵で撃退し、三国志において燦然と輝く武功をあげたことで有名ですね。魏の主要な武将として、よく並んでその名が挙げられる楽進と張遼。
今回の記事ではそんな二人の関係について解説していきたいと思います。
曹操の部下となった背景
楽進・張遼は共に曹操によって取り立てられた武将です。しかし、この二人が曹操の配下となった背景は全く異なります。
兗州出身の楽進は反董卓に参加した曹操の下に馳せ参じますが、曹操軍においてはただの記録係にすぎませんでした。しかし、楽進が故郷で兵を募集する任務を行った時、1000人もの兵士を集めてきたことが曹操に評価され、武将として登用されます。つまり、楽進は曹操陣営におけるたたき上げの将軍と言えるのです。
一方、并州出身の張遼は元々、呂布と共に并州刺史であった丁原の部下でした。
その後、呂布が丁原を暗殺すると董卓の配下となり、董卓の死後は呂布の部下となります。
そして、曹操が呂布を滅ぼした後、曹操に仕官することになります。曹操は張遼の才能を高く評価しており、降伏したばかりの張遼を一気に関内侯(漢の二十等爵の上から二番目)に昇進させています。
このように、曹操陣営における張遼は呂布から曹操に鞍替えした、いわば外様だったと言えるのです。
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楽進と張遼は仲が悪かった!?
正史によれば、楽進と張遼は日頃から仲が悪かったことが書かれています。正式な歴史書にそう書かれるくらいですので、両者の不仲は相当なものだったのでしょう。
では、なぜ楽進と張遼は仲が悪かったのでしょうか?
正史は不仲の理由には全く触れていませんが、おそらくは曹操軍内での立場の違いではなかったでしょうか。まず、楽進と張遼の地位はそれぞれ、楽進が右将軍で張遼は前将軍です。前将軍・後将軍・左将軍・右将軍は前後左右将軍とも総称され、この二人はほぼ同格であったことがうかがえます。
しかし、先ほども述べたように、楽進はたたき上げで出世してきたのに対し、張遼は敵方だった呂布陣営から鞍替えした外様であるにもかかわらず、曹操陣営に加わるやいなや一気に出世しています。
これでは当然、下積み時代から苦労してきた楽進としては面白くないでしょう。だからこそ、楽進と張遼の不仲は、たたき上げ組と外様組の対立といえるのではないでしょうか。
呉越同舟!?合肥の戦い
日頃は仲が悪かった楽進と張遼ですが、二人とも優秀な武将でした。ですので、曹操は不仲だったにもかかわらず、呉に対する前線基地である合肥をこの二人に守らせます。
そんな中、曹操が漢中に遠征した隙をつく形で、孫権率いる呉の大軍が合肥に攻め込んできます。呉の軍勢は圧倒的な大軍で、曹操軍主力は漢中におり、援軍も期待できない状況で、楽進と張遼は絶体絶命の危機に立たされることになりました。
こうした国家の危機にあって、楽進も張遼も私怨にかられて互いの足を引っ張り合うような小物ではありません。二人は日頃の恨みを忘れて、協力して呉の大軍と戦います。
「張遼は城を出て攻撃、楽進は城を防衛せよ」という曹操の策もあり、張遼と楽進は呉の大軍をわずかな兵で撃退し、一時は敵将孫権の首に迫るほどでした。
このように、楽進と張遼は不仲でしたが、二人は国家の危機に際しては私怨を引きずらずに協力するような思慮分別を持ち合わせていました。こうしたところも、楽進と張遼が名将と呼ばれる所以の一つと言えるのではないでしょうか。
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その後の楽進と張遼
合肥の戦いの後、どういうわけか楽進の功績はほとんど正史に記録されておらず、218年(建安23年)に楽進は死去したと言われています。
一方で張遼はその後も呉に対する前線地帯を守り続け、たびたび侵攻してくる呉の軍勢と戦っています。張遼は曹操の死後も魏の皇帝となった曹丕に仕え、呉の孫権に対するにらみを利かせ続け、222年(黄初3年)に死去します。
三国志ライターAlst49の独り言
いかがだったでしょうか。張遼と楽進は魏の将軍としてよく並び称される二人でしたが、実は不仲だったというのは興味深いですね。しかし、不仲だとはいえ、いざという時には日頃の恨みを捨て去って共闘したこの二人は大人物と言えるのではないでしょうか。
ともかく、張遼と楽進は出自や歩んだ経歴は全く異なりますが、二人とも曹操をよく支え、魏にとっては余人に代えがたい人物だったと言えるのではないでしょうか。
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