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姜維が防衛に失敗した理由3:上司の劉禅に管理能力が無かった
当時の蜀の君主は劉備の息子「劉禅」です。前述したとおり、諸葛亮の後を継いだ二人は蜀の国に混乱をもたらすことはありませんでしたし、劉禅も彼らの意見をよく聞いていました。
そして劉禅には諸葛亮の遺言で「董允」が傍に付けられ、宦官を重用したりする劉禅を抑えていました。また、彼らがいる間は姜維も大規模な出兵はできませんでした。全てが崩れたのは彼らが亡くなった後です。
姜維は連年の出兵をし、朝廷では宦官が力を持ち、姜維を追い落とそうと計画します。軍事と内政の担当者が揉めていては国がうまくいくはずもありません。
本来ならば上司が間に立ち、事態を収拾すべきですが劉禅にはその能力はありませんでした。そしてその隙を魏に突かれ、蜀は滅んでしまいます。
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姜維、最後の大博打
結局、蜀は滅んでしまい、姜維は魏の鍾会に降伏します。
鍾会は姜維を高く評価し、二人は懇意になります。
鍾会は同じく蜀を滅ぼした鄧艾を密告し逮捕させ、蜀での存在感を増していました。
姜維はそんな鍾会の独立の野望を見抜き、一緒に反乱を起こすことを計画します。
姜維は実は鍾会に魏の武将を殺させ、その後に鍾会も殺し、劉禅を再び迎え入れ蜀を復興させようという計画を立てていたのです。
しかし、魏の司馬昭は鍾会の叛意を見抜いており、兵を向かわせました。
鍾会は慌てて反乱に踏み切りますが、失敗し、殺され、その時姜維も一緒に殺されてしまいます。姜維は最後の大博打にも結局は失敗してしまうのです。
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三国志ライターみうらの独り言
姜維は有能な人物でしたが、自分の計画を実行する能力が足りていなかったのでしょう。実際、計画は完璧で自信満々でも失敗してしまう人はいて、その原因は大抵は周囲との連係不足です。
やはり何かを実行しようとするなら周囲への根回しは大事なのでしょうね。
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