文欽は父の文稷の時代から魏に仕えたジュニア武将です。武勇こそ父譲りで強かったのですが、性格が最悪に悪く周囲に嫌われました。
ところが、曹芳時代に権力を握った曹爽と同郷出身であった事で不始末を曹爽にもみ消してもらい、増々増長するようになりました。
しかし、曹爽が司馬一族のクーデターで排除されると不安を覚え、毌丘倹と共に西暦255年に反乱を起こしますが、司馬師によって撃破され文欽は呉に亡命する羽目になります。実はこの時、文欽には勝利のワンチャンスが残されていましたが自身の無能ぶりが祟り、あえなくチャンスを逃していたのです。
ザックリ!文欽が逃したチャンスとは?
では、最初に文欽が逃したチャンスについてザックリ説明します。
1 | 毌丘倹と文欽が司馬師に反乱を起こす |
2 | 司馬師は目の手術を受けたばかりだが鍾会に勧められ出陣 |
3 | 司馬師、文欽の子文鴦の奇襲で窮地に陥り傷口が開いて目玉ボーン! |
4 | 尹大目、司馬師の命が長くない事を文欽に伝えようと使者になる |
5 | 文欽、尹大目のほのめかしを理解できず追い払う |
6 | 文欽、呉に逃亡。毌丘倹、隠れている所を見つかり射殺 |
7 | 司馬師、毌丘倹の死の7日後に死亡 |
ここからは、もう少し詳しく内容を解説していきましょう。
関連記事:文欽・毌丘倹の反乱を鎮圧することができたのは傅嘏の進言があったからこそ?
関連記事:魏の諸葛誕が反乱に失敗した原因ってなに?
文欽に助言しようとした尹大目
文欽に勝利のワンチャンスを与えようとした人物の名前は尹大目と言います。彼は元、曹氏の奴隷でしたが、幼少の頃より皇帝、曹芳の傍に仕え、時の実力者の曹爽に信頼され官職に取り立てられました。
西暦249年正月、司馬懿が、曹芳と曹爽一派が洛陽を出た隙にクーデターを起こします。この時、尹大目は洛陽に残って捕まり司馬懿の命令により曹爽に降伏を促すように命令されました。
司馬懿は「曹爽は地位を奪うだけで殺したりはしない安心せよ」と尹大目を安心させたので、尹大目は洛水に誓い曹爽に身の安全を保障し、曹爽はこれを信じて降伏しますが司馬懿は約束を破り曹爽と一派を皆殺しにしました。
司馬懿は、その後西暦251年に死去しますが、子の司馬師が家督を相続し魏王朝の権力を牛耳るようになります。
尹大目は、司馬懿に騙され自分を引き立ててくれた曹爽を死においやった事を内心後悔していて、密かに魏王朝の復権を企んでいました。
関連記事:高平陵の変は名士代表・司馬懿と反名士・曹爽の対立だった!?
関連記事:「高平陵の乱」を蜀の丞相の費禕はどう評価したの?蜀から見る魏のクーデター
毌丘倹の乱
西暦255年、寿春で毌丘倹が文欽を誘い、反司馬師の兵を挙げます。この時、司馬師は左目の下の瘤を手術したばかりで病に臥せっていましたが自ら討伐軍を率いました。
尹大目も従軍していましたが、文欽の息子文鴦の活躍などで司馬師は窮地に陥り、傷が裂けて目玉が飛び出してしまい、高熱を発して重体となります。
この時、尹大目は閃きました。
(もうじき司馬師は死ぬ。この事実を文欽に知らせ、司馬師が退却する時を待てと伝えれば司馬師を破り、魏王朝を回復できる)
尹大目は偽って、司馬師に進言し
「帝と文欽は同郷であり、私は文欽と親しくしていました。文欽も心無い部下に踊らされているだけなので、私が誠心誠意説得すれば降伏すると思います。」
このように、文欽に降伏を勧める使者になりたいと提案し、許されたので単騎で文欽の下に向かいました。
関連記事:司馬師ってめちゃくちゃ天才だったのでは?三国時代を終わらせた司馬師の「地味な天才っぷり」をまとめてみた
関連記事:司馬師の性格ってめちゃくちゃマジメ?姜維との一騎打ちすら断らない健気さを見よ!
アホな文欽は気づけず
とはいえ、真正面から「文欽よ!司馬師は眼病で、もうすぐ死ぬぞ!もう少しの辛抱だ。降伏するな!」とは叫べません。単騎とはいえ、文欽の陣営にも司馬師のスパイがいるはずで、正面から司馬師の病状を伝えれば、尹大目は機密をバラしたとして処刑されてしまうでしょう。
そこで、それとなく文欽に悟ってもらう必要があり尹大目は、「降伏は一時の屈辱ではありましょうが、悠久の大義に比べれば取るに足りません。君侯はどうして苦しんで『数日』の事を忍べないのでしょうか!」
こうして数日という言葉を強調して、文欽に司馬師の死が近い事を伝えようとします。
しかし、相手が悪かった!北斗の拳の悪党なみに頭が悪い文欽は、尹大目の真意を読み解く事が出来ず、
「ああん?貴様は先帝に家族同然に遇されたのに、その恩義を忘れ去り、逆に司馬師と反逆するのか!上天を顧みねば天は貴様を助けぬぞォ!」このように罵り、矢を放とうとする始末でした。
(だから、こうして司馬師の病気がヤバイくて、後数日の命だとほのめかしているだろうがよ!いい加減気づけ、バカ!)
尹大目は落胆し「計画は失敗するでしょう。精々頑張りなさい」と言い捨てて去っていきました。
文欽は呉の孫峻、呂拠らの軍と合流し寿春入りを目指しますが、寿春が既に諸葛誕に占領されていたため失敗しそのまま呉へ亡命。
毌丘倹も文欽大敗の知らせを聞いて怖気づき、軍を解散して逃亡。水辺の草むらに隠れている所を住民に通報され張属という男に矢で射殺されます。
司馬師は激痛を堪え、戦後処理を済ませ洛陽に帰還して間もなく病死しますが、それは毌丘倹の死から僅か7日後という早さでした。
関連記事:【魏の忠臣】王基が司馬家兄弟に噛み付いたのは魏の国家のためだった
関連記事:魏の諸葛誕が反乱に失敗した原因ってなに?
毌丘倹に伝えられれば歴史は変わったかも…
その後の尹大目については記録が残っていません。しかし、司馬師重体のビッグニュースを伝える相手がよりによって脳筋の文欽しかいなかったというのが尹大目の不幸でした。
もし、文欽ではなく遥かに有能な毌丘倹に情報を伝えられたら、毌丘倹は軍を解散せずにじっくりと待ち、司馬師が死んでから攻勢に転じて勝利できたかも知れません。
洛陽には司馬昭がいるので、政権転覆は容易ではなかったでしょうが、司馬師の専横に不満を持つ魏の重臣が続々と反旗を翻していれば、司馬氏の天下も微妙なものになった事でしょう。返す返すも文欽のポジションが恨めしいですね。
関連記事:毌丘倹(かんきゅうけん)とはどんな人?朝鮮半島に進出し倭も吸収合併を目論んでいた?
三国志ライターkawausoの独り言
以後の文欽は孫峻政権下の呉で重臣になりますが、孫峻のお気に入りである事をいい事に、魏の時代と同様な傍若無人な態度を取り続け、呉の人々にことごとく嫌われます。
その後、寿春で魏の諸葛誕が反乱を起こすと、呉から救援に向かうものの寿春城に入った所で司馬昭の軍勢に包囲されて食糧が尽き、元々犬猿の仲だった諸葛誕との関係が悪化。
諸葛誕に斬殺されて死亡しました。文欽の死を知った魏の人々は大喜びをしたそうです。
参考文献:正史三国志
関連記事:魏の名将文鴦はダメ親父に足を引っ張られ人生台無し?
関連記事:文鴦とはどんな人?三国志演義では趙雲を凌ぐ遅れて来た名将