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ダメ親父文欽が司馬師に勝てるチャンスを逃していた?

2021年6月27日


 

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進軍する兵士b(モブ用)

 

文欽(ぶんきん)は父の文稷(ぶんしょく)の時代から魏に仕えたジュニア武将です。武勇こそ父譲りで強かったのですが、性格が最悪に悪く周囲に嫌われました。

 

曹爽

 

ところが、曹芳(そうほう)時代に権力を握った曹爽(そうそう)と同郷出身であった事で不始末を曹爽にもみ消してもらい、増々増長するようになりました。

 

毌丘倹と共に反乱を起こす文欽

 

しかし、曹爽が司馬(しば)一族のクーデターで排除されると不安を覚え、毌丘倹(かんきゅうけんと共に西暦255年に反乱を起こしますが、司馬師(しばし)によって撃破され文欽は呉に亡命する羽目になります。実はこの時、文欽には勝利のワンチャンスが残されていましたが自身の無能ぶりが祟り、あえなくチャンスを逃していたのです。

 

監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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ザックリ!文欽が逃したチャンスとは?

kawausoさんの麒麟がキター!

 

では、最初に文欽が逃したチャンスについてザックリ説明します。

 

1 毌丘倹と文欽が司馬師に反乱を起こす
2 司馬師は目の手術を受けたばかりだが鍾会(しょうかい)に勧められ出陣
3 司馬師、文欽の子文鴦(ぶんおう)の奇襲で窮地に陥り傷口が開いて目玉ボーン!
4 尹大目(いんたいもく)、司馬師の命が長くない事を文欽に伝えようと使者になる
5 文欽、尹大目のほのめかしを理解できず追い払う
6 文欽、呉に逃亡。毌丘倹、隠れている所を見つかり射殺
7 司馬師、毌丘倹の死の7日後に死亡

 

ここからは、もう少し詳しく内容を解説していきましょう。

 

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文欽に助言しようとした尹大目

司馬懿と曹爽

 

文欽に勝利のワンチャンスを与えようとした人物の名前は尹大目と言います。彼は元、曹氏の奴隷でしたが、幼少の頃より皇帝、曹芳の傍に仕え、時の実力者の曹爽に信頼され官職に取り立てられました。

 

司馬懿の墓

 

西暦249年正月、司馬懿(しばい)が、曹芳と曹爽一派が洛陽を出た隙にクーデターを起こします。この時、尹大目は洛陽に残って捕まり司馬懿の命令により曹爽に降伏を促すように命令されました。

 

司馬懿

 

司馬懿は「曹爽は地位を奪うだけで殺したりはしない安心せよ」と尹大目を安心させたので、尹大目は洛水に誓い曹爽に身の安全を保障し、曹爽はこれを信じて降伏しますが司馬懿は約束を破り曹爽と一派を皆殺しにしました。

 

司馬懿は、その後西暦251年に死去しますが、子の司馬師(しばし)が家督を相続し魏王朝の権力を牛耳るようになります。

 

尹大目は、司馬懿に騙され自分を引き立ててくれた曹爽を死においやった事を内心後悔していて、密かに魏王朝の復権を企んでいました。

 

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晋王朝のマイナー武将

 

毌丘倹の乱

カン丘倹(毌丘倹)

 

西暦255年、寿春で毌丘倹が文欽を誘い、反司馬師の兵を挙げます。この時、司馬師は左目の下の瘤を手術したばかりで病に臥せっていましたが自ら討伐軍を率いました。

 

文鴦(ぶんごう)

 

尹大目も従軍していましたが、文欽の息子文鴦(ぶんおう)の活躍などで司馬師は窮地に陥り、傷が裂けて目玉が飛び出してしまい、高熱を発して重体となります。

 

失敗し落ち込む司馬師

 

この時、尹大目は閃きました。

(もうじき司馬師は死ぬ。この事実を文欽に知らせ、司馬師が退却する時を待てと伝えれば司馬師を破り、魏王朝を回復できる)

 

尹大目は偽って、司馬師に進言し

晋の司馬師は玉座に座る

 

「帝と文欽は同郷であり、私は文欽と親しくしていました。文欽も心無い部下に踊らされているだけなので、私が誠心誠意説得すれば降伏すると思います。」

 

このように、文欽に降伏を勧める使者になりたいと提案し、許されたので単騎で文欽の下に向かいました。

 

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アホな文欽は気づけず

 

とはいえ、真正面から「文欽よ!司馬師は眼病で、もうすぐ死ぬぞ!もう少しの辛抱だ。降伏するな!」とは叫べません。単騎とはいえ、文欽の陣営にも司馬師のスパイがいるはずで、正面から司馬師の病状を伝えれば、尹大目は機密をバラしたとして処刑されてしまうでしょう。

 

そこで、それとなく文欽に悟ってもらう必要があり尹大目は、「降伏は一時の屈辱ではありましょうが、悠久の大義に比べれば取るに足りません。君侯(くんこう)はどうして苦しんで『数日』の事を忍べないのでしょうか!」

 

こうして数日という言葉を強調して、文欽に司馬師の死が近い事を伝えようとします。

 

しかし、相手が悪かった!北斗の拳の悪党なみに頭が悪い文欽は、尹大目の真意を読み解く事が出来ず、

「ああん?貴様は先帝に家族同然に遇されたのに、その恩義を忘れ去り、逆に司馬師と反逆するのか!上天を顧みねば天は貴様を助けぬぞォ!」このように罵り、矢を放とうとする始末でした。

 

(だから、こうして司馬師の病気がヤバイくて、後数日の命だとほのめかしているだろうがよ!いい加減気づけ、バカ!)

 

尹大目は落胆し「計画は失敗するでしょう。精々頑張りなさい」と言い捨てて去っていきました。

 

孫峻

 

文欽は呉の孫峻(そんしゅん)呂拠(りょきょ)らの軍と合流し寿春入りを目指しますが、寿春が既に諸葛誕(しょかつたん)に占領されていたため失敗しそのまま呉へ亡命。

 

毌丘倹も文欽大敗の知らせを聞いて怖気づき、軍を解散して逃亡。水辺の草むらに隠れている所を住民に通報され張属という男に矢で射殺されます。

 

司馬師

 

司馬師は激痛を堪え、戦後処理を済ませ洛陽に帰還して間もなく病死しますが、それは毌丘倹の死から僅か7日後という早さでした。

 

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毌丘倹に伝えられれば歴史は変わったかも…

魏に反乱後、討伐されるカン丘倹(毌丘倹)

 

その後の尹大目については記録が残っていません。しかし、司馬師重体のビッグニュースを伝える相手がよりによって脳筋の文欽しかいなかったというのが尹大目の不幸でした。

 

文欽

 

もし、文欽ではなく遥かに有能な毌丘倹に情報を伝えられたら、毌丘倹は軍を解散せずにじっくりと待ち、司馬師が死んでから攻勢に転じて勝利できたかも知れません。

 

司馬昭

 

洛陽には司馬昭(しばしょう)がいるので、政権転覆は容易ではなかったでしょうが、司馬師の専横に不満を持つ魏の重臣が続々と反旗を翻していれば、司馬氏の天下も微妙なものになった事でしょう。返す返すも文欽のポジションが恨めしいですね。

 

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三国志ライターkawausoの独り言

kawauso 三国志

 

以後の文欽は孫峻政権下の呉で重臣になりますが、孫峻のお気に入りである事をいい事に、魏の時代と同様な傍若無人な態度を取り続け、呉の人々にことごとく嫌われます。

 

諸葛誕と仲違いを起こし殺害される文欽

 

その後、寿春で魏の諸葛誕が反乱を起こすと、呉から救援に向かうものの寿春城に入った所で司馬昭の軍勢に包囲されて食糧が尽き、元々犬猿の仲だった諸葛誕との関係が悪化。

 

諸葛誕に斬殺されて死亡しました。文欽の死を知った魏の人々は大喜びをしたそうです。

 

参考文献:正史三国志

 

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三国志ライフ

 

 

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台湾より南、フィリピンよりは北の南の島出身、「はじめての三国志」の創業メンバーで古すぎる株。もう、葉っぱがボロボロなので抜く事は困難。本当は三国志より幕末が好きというのは公然のヒミツ。三国志は正史から入ったので、実は演義を書く方がずっと神経を使う天邪鬼。

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