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劉備が「一国一城の主」になれた理由を考察!

2021年6月30日


 

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食客に成り下がる劉備

 

三国志」の主役の一人「劉備(りゅうび)」は「曹操(そうそう)」「孫権(そんけん)」と違い、名門あるいは豪族の出身ではありませんでした。しかし、のちに荊州(けいしゅう)で初めて「一国一城の主」になり、ついには「蜀漢」を立ち上げ、三国の一角を担うことになるのです。

 

二刀流の劉備

 

そんなスタートダッシュに成功したとは言えない劉備がなぜ「一国一城の主」になることが出来たのでしょうか?

この記事では考察していこうと思います。

 

監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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劉備の生まれと、世に出たきっかけは?

靖王劉勝の子孫と勝手に名乗る劉備

 

劉備は一応漢の王族の子孫、という事になっていましたが、真相は不明です。彼は幼くして父を亡くし、母と二人で裕福とは言えない生活を送っていました。

 

蜀の劉備

 

そしてあまり学問は好まず、仁義を大事にし、困った人を助ける「任侠」(ヤクザとは違う)の道に進みます。

 

劉備

 

劉備の元には彼を慕って多くの若者が彼の配下になったそうです。劉備が「黄巾(こうきん)の乱」で挙兵した際は、多くの寄付が集まったそうで、彼の人望はかなり高かったことが想像できますね。

 

劉備、各地を転々とする

劉備と公孫瓚

 

劉備は挙兵後は領土も持たず、様々な軍勢の元を転々とすることになります。先ずは「公孫瓚(こうそんさん)」の元に身を寄せ、続いては「陶謙(とうけん)」「袁紹(えんしょう)」そして「劉表(りゅうひょう)」を頼ります。

 

公孫瓚と劉備

 

いずれも後に滅ぶ勢力なのが悲しいです。ただ、ここまでいろんな勢力に迎え入れられることが出来た、という事は劉備軍団はかなり軍事力に優れ、便利な存在だったという事が想像できますね。

 

蜀の劉備

 

劉備はただフラフラしていたのではなく、各地の戦で着実に戦功をたて、名声を高めていたと考えられます。また、劉備の「任侠」の精神が軍団の結束を高め、少しでも軍勢が欲しい領主たちにとって「傭兵集団」としての価値も高かったのでしょう。

 

劉備と曹操

 

そうして世間の劉備に対する評判が高まったことから、当時の実力者「曹操」が彼を警戒し、劉備は荊州まで逃げることになってしまいます。

 

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公孫瓚特集

 

ついに一国一城の主に!

三国志の主人公の劉備

 

劉表の元で劉備は「新野県(しんやけん)」を与えられ、ここでついに「一国一城の主」になることが出来ました。当時の荊州は中央の戦乱とは無縁であったため、劉表は迫る戦乱を防ぐため、劉備を盾とすべく城を与えたのでしょう。

 

龐統と孔明を手に入れた劉備

 

ここで劉備は力を蓄えることが出来ました。また、当時の荊州は戦乱を逃れてきた知識人が多く滞在していましたが、劉備はそんな人たちからも注目されていました。

 

なぜ劉備が推されたのか?

蜀の皇帝に即位した劉備

 

後に劉備は蜀の地を得て、ついに皇帝に即位することが出来ました。なぜそこまで到達することが出来たのでしょうか?

 

劉備を警戒する王粲

 

先述のとおり、荊州には知識人が多く滞在していました。彼らは少しでも有為な君主に仕え、自分も名誉などを得たいと考えていました。そこで白羽の矢が立てられたのが劉備です。

 

曹操にコテンパにされる袁紹

 

当時、曹操は袁紹を撃破し、中原(中国の中心地)を制圧し天下に近づいていました。また、孫権も呉地方で確固たる勢力を築いています。

 

劉璋(りゅうしょう)

 

残る地は荊州と益州(えきしゅう)ですが、そこを根拠地とする「劉表」「劉璋(りゅうしょう)」は頼りない人物でした。その為、当時名声が高かった劉備に知識人たちは注目したのです。

 

劉備を支援する麋竺

 

劉備なら「曹操」「孫権」に対抗できると考え、劉備を押し上げたのでしょう。劉備はその期待に応え、益州荊州を奪い、帝位につくことが出来ました。彼の各地での流浪は、名声を高めるための重要な時間でした。

 

劉備の「一国一城の主」に貢献した男

徐庶

 

劉備の「一国一城の主」に最初に貢献したのは「徐庶(じょしょ)」という人物です。彼はもともと「任侠」の世界に生きる人で、人の敵討ちに助っ人として参加するような人物でした。

 

剣を持って戦う徐庶

 

しかしのちに学問にめざめ、荊州の名士と交流するようになります。徐庶はあるとき劉備と面会し、意気投合することになり、徐庶はあの「諸葛亮(しょかつりょう)」を推薦します。

 

新解釈・三國志 三顧の礼に秒で答える孔明 孔明、劉備

 

そして劉備は諸葛亮を配下に迎え、「天下三分(てんかさんぶん)の計」(中国を曹操、孫権、劉備で三分すること)を実現することになるのです。劉備が雄飛するのにもっと貢献したのがこの徐庶と言えるでしょう。

 

人質にされる徐庶の母親

 

しかし徐庶はのちに母が魏の捕虜になってしまったため、やむを得ず劉備の元を去ることになってしまいました。

 

徐庶特集

 

三国志ライターみうらの独り言

みうらひろし(提供)

 

まとめてみると劉備が「一国一城の主」となれた理由は「傭兵集団の主として評価が高かった。しかし主が次々に滅んでしまい、独立のチャンスが無かった。

 

悪役の曹操、正義の味方の劉備

 

最後に流れ着いたときには曹操と孫権が確固たる地位を築いており、対抗できそうなのは劉備しかいなかった。なので自分を売るチャンスをうかがう人々が劉備を押し上げた。」といったところでしょうか。劉備の若いころからコツコツ築き上げた信頼が国を持つことが出来たのです。

 

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曹操孟徳

 

 

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みうらひろし

歴史が好きになったきっかけはテレビの再放送で観た人形劇の三国志でした。そこから歴史、時代小説にはまり現在に至ります。日本史ももちろん好きですよ。推しの小説家は伊東潤さんと北方謙三さん。 好きな歴史人物: 呂蒙、鄧艾、長宗我部盛親 何か一言: 中国で三国志グッツを買おうとしたら「これは日本人しか買わないよ!」と(日本語で)言われたのが思い出です。

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