「三国志」の主役の一人「劉備」は「曹操」「孫権」と違い、名門あるいは豪族の出身ではありませんでした。しかし、のちに荊州で初めて「一国一城の主」になり、ついには「蜀漢」を立ち上げ、三国の一角を担うことになるのです。
そんなスタートダッシュに成功したとは言えない劉備がなぜ「一国一城の主」になることが出来たのでしょうか?
この記事では考察していこうと思います。
劉備の生まれと、世に出たきっかけは?
劉備は一応漢の王族の子孫、という事になっていましたが、真相は不明です。彼は幼くして父を亡くし、母と二人で裕福とは言えない生活を送っていました。
そしてあまり学問は好まず、仁義を大事にし、困った人を助ける「任侠」(ヤクザとは違う)の道に進みます。
劉備の元には彼を慕って多くの若者が彼の配下になったそうです。劉備が「黄巾の乱」で挙兵した際は、多くの寄付が集まったそうで、彼の人望はかなり高かったことが想像できますね。
劉備、各地を転々とする
劉備は挙兵後は領土も持たず、様々な軍勢の元を転々とすることになります。先ずは「公孫瓚」の元に身を寄せ、続いては「陶謙」「袁紹」そして「劉表」を頼ります。
いずれも後に滅ぶ勢力なのが悲しいです。ただ、ここまでいろんな勢力に迎え入れられることが出来た、という事は劉備軍団はかなり軍事力に優れ、便利な存在だったという事が想像できますね。
劉備はただフラフラしていたのではなく、各地の戦で着実に戦功をたて、名声を高めていたと考えられます。また、劉備の「任侠」の精神が軍団の結束を高め、少しでも軍勢が欲しい領主たちにとって「傭兵集団」としての価値も高かったのでしょう。
そうして世間の劉備に対する評判が高まったことから、当時の実力者「曹操」が彼を警戒し、劉備は荊州まで逃げることになってしまいます。
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ついに一国一城の主に!
劉表の元で劉備は「新野県」を与えられ、ここでついに「一国一城の主」になることが出来ました。当時の荊州は中央の戦乱とは無縁であったため、劉表は迫る戦乱を防ぐため、劉備を盾とすべく城を与えたのでしょう。
ここで劉備は力を蓄えることが出来ました。また、当時の荊州は戦乱を逃れてきた知識人が多く滞在していましたが、劉備はそんな人たちからも注目されていました。
なぜ劉備が推されたのか?
後に劉備は蜀の地を得て、ついに皇帝に即位することが出来ました。なぜそこまで到達することが出来たのでしょうか?
先述のとおり、荊州には知識人が多く滞在していました。彼らは少しでも有為な君主に仕え、自分も名誉などを得たいと考えていました。そこで白羽の矢が立てられたのが劉備です。
当時、曹操は袁紹を撃破し、中原(中国の中心地)を制圧し天下に近づいていました。また、孫権も呉地方で確固たる勢力を築いています。
残る地は荊州と益州ですが、そこを根拠地とする「劉表」「劉璋」は頼りない人物でした。その為、当時名声が高かった劉備に知識人たちは注目したのです。
劉備なら「曹操」「孫権」に対抗できると考え、劉備を押し上げたのでしょう。劉備はその期待に応え、益州荊州を奪い、帝位につくことが出来ました。彼の各地での流浪は、名声を高めるための重要な時間でした。
劉備の「一国一城の主」に貢献した男
劉備の「一国一城の主」に最初に貢献したのは「徐庶」という人物です。彼はもともと「任侠」の世界に生きる人で、人の敵討ちに助っ人として参加するような人物でした。
しかしのちに学問にめざめ、荊州の名士と交流するようになります。徐庶はあるとき劉備と面会し、意気投合することになり、徐庶はあの「諸葛亮」を推薦します。
そして劉備は諸葛亮を配下に迎え、「天下三分の計」(中国を曹操、孫権、劉備で三分すること)を実現することになるのです。劉備が雄飛するのにもっと貢献したのがこの徐庶と言えるでしょう。
しかし徐庶はのちに母が魏の捕虜になってしまったため、やむを得ず劉備の元を去ることになってしまいました。
三国志ライターみうらの独り言
まとめてみると劉備が「一国一城の主」となれた理由は「傭兵集団の主として評価が高かった。しかし主が次々に滅んでしまい、独立のチャンスが無かった。
最後に流れ着いたときには曹操と孫権が確固たる地位を築いており、対抗できそうなのは劉備しかいなかった。なので自分を売るチャンスをうかがう人々が劉備を押し上げた。」といったところでしょうか。劉備の若いころからコツコツ築き上げた信頼が国を持つことが出来たのです。
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