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再び魏に敗れ、北伐に対する批判が高まる
257年魏の「諸葛誕」が反乱を起こします。姜維はそれに乗じて再び出兵。城を囲みますが、鄧艾が援軍として駆けつけ、両軍は半年にわたり対峙します。
しかし諸葛誕の反乱が失敗。連携を狙っていた姜維の思惑は外れ、翌年の258年、撤退することになります。蜀内では北伐への批判が高まり、姜維は孤立し、北伐を断念せざるを得なくなりました。
ここまで見てきてわかるように、なんと姜維は5年連続で北伐を敢行しています。ある程度の戦果は挙げていますが、負担を強いられる庶民はかなりつらかったと考えられますね。
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最後の北伐
北伐を断念した姜維は蜀と魏の国境の要衝「漢中」の守備に力を入れることにしました。この間、姜維は蜀の首都成都にはほとんど戻らず、内政を無視していました。その為、蜀主劉禅は宦官を信用して政治を混乱させました。
262年に再び北伐を行いますが、またしても鄧艾に撃退されます。成都では姜維を陥れようとする動きが大きくなり、姜維は成都にいることが出来なくなってしまいます。そしてますます蜀は混乱、衰退することになるのです。
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蜀滅亡と姜維の最期
蜀の混乱を察知した魏は蜀征討の軍を起こします。
姜維は剣閣で必死に魏軍を食い止めますが、鄧艾が別ルートで成都に迫り、蜀主劉禅は降伏し、蜀は滅亡します。
姜維も降伏しますが、魏の鍾会と共に反乱を企てます。
しかし、これは露見し失敗。姜維は妻子とともに殺され、悲しい最期を迎えてしまいます。
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三国志ライターみうらの独り言
姜維は確かな実力があり、北伐でも一定の成果を上げることができました。しかし、そのやる気が裏目に出て、最後には国力を消耗させてしまうのです。決断するのは大事ですが、後の事も考えることはもっと重要と、姜維からは学ぶことが出来ますね。
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