魏の武将「鄧艾」と言えば奇策を用いて蜀を滅ぼしたことで知られる名将です。そんな鄧艾、何故か登山と縁が深いと言われることがあるそうです。
それはなぜなのでしょうか。鄧艾の登山は蜀を攻めるときの行動に深く関わってくるのです。今回の記事では鄧艾の生涯と、登山との関係性について語ってみたいと思います。
この記事の目次
貧しい家に生まれる鄧艾
鄧艾は早くに父を亡くし、母親と貧しい暮らしをしていました。そんな中生まれ故郷が曹操に侵略され、鄧艾母子は「屯田民」(民に新田を作らせること)として移住させられます。しかし、12歳か13歳くらいのとき、役所に召し出され、役人として働くことになりました。
吃音で苦労するが努力をする鄧艾
鄧艾は「吃音」というハンデを背負っていました。「吃音」とは同じ音を繰り返したり、口ごもったりすることです。これによって周囲に馬鹿にされ、なかなか出世の機会に恵まれませんでした。
しかし、鄧艾には趣味がありました。それは各地の山や、沼などを回り、地図を作り測量することでした。そして戦が起きたときに備え、軍営などにすべきところを考えて地図に印をつけたりしていました。
そんな中でのちに役に立つ、登山の知識も身に着けたと考えられます。そのことも周りに嘲笑されていましたが、めげずに苦学し、中央に派遣される機会に恵まれます。
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司馬懿に見いだされ、武将として活躍する鄧艾
都に行った際、当時の魏の権力者「司馬懿」に見いだされ、役人として働くことになります。鄧艾は数々の建策を行いました。
新田開発のための水を確保するための運河建設や、活発な屯田政策など、主に農業政策に彼は通じていたようです。鄧艾の建策の多くは司馬懿に採用され、魏の国力増強に大いに貢献したといいます。
後には軍事面を担当する武将としても任用され、異民族の慰撫や、反乱の鎮圧、そして蜀軍の度重なる北伐で戦果を挙げていきました。
特に北伐に際しては小説「三国志演義」ではライバル関係とされた「姜維」と何度も対峙することになります。
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