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鄧艾、鐘会と共に蜀攻略に向かう
姜維は度重なる北伐を行い、国力を低下させていきました。また、蜀の首都では皇帝劉禅が宦官を信用してしまい、まともな政治は行われず、国内には怠惰な雰囲気が流れていました。
これを察知した魏の実質上の権力者「司馬昭」は蜀征伐を決意。鄧艾と名門出身の「鐘会」に責任者として蜀征伐に向かわせます。
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立ちはだかる姜維
しかし、蜀に至るまでの要衝「剣閣」には姜維が立てこもっていました。この剣閣を抜かなければ蜀に突入することはできません。何度も鄧艾、鐘会は攻め寄せますが、落とすことはできませんでした。
一時は撤退も考えますが、地理を熟知する鄧艾はある奇策を提案します。それは剣閣を迂回し、陰平道というところから山越えをして蜀の首都成都を急襲するルートです。鐘会は反対しますが、鄧艾は自分たちだけでそのルートを強行することにしたのです。
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鄧艾、難所を登山で越える
そのルートは殆ど人も通っておらず、いわば前人未到で道もほとんどありません。鄧艾たちは木を伐り、道を作り、橋を架け、時には崖を毛布にくるまり落ちながら進みました。
鄧艾のたどった道は陰平から江油(蜀の城がある)のルートです。このあたりは2000メートル級の山々が連なり、かなりの難所だったと考えられます。しかも10月〜11月の寒い時期に行軍したので、相当な過酷な登山だったでしょう。多数の死者も出しながらもなんとか蜀の城がある江油に到着。まさか敵が来るとは思わない蜀の守将はあっさりと降伏してしまいます。
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成都を陥落させる
突然の鄧艾の到着に驚いた蜀は慌てて、将軍の諸葛瞻を派遣します。
始めは鄧艾軍は破れますが、鄧艾は諸将を叱咤激励。
登山してここまで来た鄧艾軍は逃げ道もないため、必死に戦い、見事に勝利。もはやこれまでと思った蜀の君主劉禅は降伏を申し出ます。こうして鄧艾は決死の登山によって蜀を滅亡させることに成功したのです。
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三国志ライターみうらの独り言
鄧艾は若いころから登山をしていたようです。それが結局は自分の仕事に役に立つわけですから、趣味も一生懸命にやるに越したことは無いですね。
ちなみに鄧艾のルートをグーグルマップ等で見てみると今でもほとんど何もなく、どんだけ困難な道だったか想像できます。
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