全体としては堅実で真面目な人が多いイメージの三国志の時代の諸葛一族。
その中でも異彩を放つのは諸葛瑾の子で天才を謳われた諸葛恪です。幼帝である孫亮の後見として独裁体制を敷き、孫峻に殺害される運命を辿る諸葛恪ですが、彼の家庭に目を向けてみると悲惨な運命を暗示するような闇があるのです。
この記事の目次
諸葛恪の家庭の闇ザックリ
では、最初に諸葛恪の家庭の闇についてザックリ解説します。
一 | 諸葛恪は孫覇派に深く関与し孫権に処罰された嫡男の諸葛綽を
再教育するよう孫権に命じられたが、これを毒殺した。 |
二 | 諸葛恪は孫和派のように見られているが、諸葛恪を推挙したのは
孫峻のような孫覇派で孫魯班との関係が強い人物であり、諸葛恪も孫覇派ないしは、二股をかけて曖昧な対応をしていた可能性がある。 |
三 | その後、孫権は孫和派も孫覇派も粛正し、末子の孫亮を立てたので
諸葛恪は二宮の変から足を洗おうと孫覇派に固執する諸葛綽を毒殺する事で幕引きをしたのではないか? |
四 | 諸葛恪の次男の諸葛竦は、父を度々諫言したが聞き入れないので
後難を恐れていたが、孫峻のクーデターにより、それが現実になる。 |
以上がザックリとした諸葛恪の家庭の闇についての解説です。ここからは、もう少し詳しく記事についてみてみましょう。
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嫡男を毒殺した諸葛恪
諸葛恪には、諸葛綽という嫡男がいました。二宮の変の頃に地位は騎都尉でしたが、孫覇派に深く関与したという理由で孫権に捕らえられ諸葛恪に引き渡されます。孫権は諸葛恪の嫡男である事を慮ったのか、再教育するようにと諸葛恪に申しつけましたが、諸葛恪は諸葛綽に毒酒を飲ませて殺害したと伝えられます。
我が子を毒殺するようなケースは、他の諸葛一族では見た事がありません。どうして諸葛恪は嫡男を毒殺してしまったのでしょうか?
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諸葛恪も孫覇派だった?
正史三国志の諸葛恪伝では、二宮の変前後5年間の記述がありません。そして、記述は陸遜が憤死した245年に飛び、諸葛恪は陸遜の後任として大将軍となり荊州を統治する事になりました。
もちろん、この人事に許可を出したのは孫権ですが、もし諸葛恪が陸遜同様に孫和派であったなら孫権がこの人事を承認するとは思えません。
また、孫権が皇太子に孫亮を立てた後の後見人として諸葛恪を推したのは孫峻ですが、彼は孫権が孫和を許そうとした時に、孫弘や孫魯班と共に讒言して阻止しています。この繋がりから考えて諸葛恪が孫覇派に近かった可能性は高いと思います。
もう1つ、諸葛恪は曁艶や呂壹のような酷吏に対する批判の言葉を口にしていません。こうして考えると諸葛恪は、状況次第でどちらにも与するコウモリ野郎か、あるいは孫権の意向に従っている日和見主義だったと考えられます。
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権力の座を掴むのに諸葛綽が邪魔だった
しかし、当の孫権は孫峻が勧めるほどには諸葛恪を買っていませんでした。
大権をゆだねるとは言っても死刑のような重要案件では事後報告を義務付けていて、また、武昌管区の軍権については呂岱と折半ですし、江陵には朱然を置いて諸葛恪のお目付け役としています。
このように孫権に完全に信用されていると言い難い諸葛恪に取って、孫覇派として頑なに意志を曲げない諸葛綽は、自分の立場を危うくする存在だったかも知れません。
すでに孫権は、孫和派も孫覇派も見限り、末子の孫亮を立てて後継者にしていましたし、身内に頑なな孫覇派がいては自分の立場が危うくなると諸葛恪が考えたのでしょう。
もちろん脅したりすかしたりはしたのでしょうが、それでも諸葛綽が考えを改めないと悟った諸葛恪は己の野心の為に諸葛綽に毒殺したと考えられます。
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