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見方の裏切りで呆気ない最期を遂げた徐栄
その後、王允が涼州軍閥の皆殺しを命じたという伝聞が広がると、賈詡に唆された李傕や郭汜の10万の大軍が長安へ攻め上ります。これに対し王允は徐栄と涼州軍閥の胡軫、楊定を迎撃に派遣しますが、涼州軍閥の胡軫・楊定は傲慢な王允の政治に対しすでに嫌気が差していました。
(大体よぉ…李傕や郭汜は俺達と同じ涼州人じゃねえか?
あいつらと戦うんじゃ同士討ちで、勝っても笑うのは王允だけだ。
いっそ、あっちについて王允を殺っちまおうぜ)
かくして胡軫と楊定は李傕・郭汜に呼応して寝返り味方の徐栄に襲い掛かりました。こうして軍は大混乱、徐栄はあえなく討死してしまうのです。
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献帝の忠臣として敢えて死んだ?
英雄記によると、呂布も迎撃に出て郭汜を一騎打ちで馬から落としていますが、戦況不利と見るや、献帝を見捨てて長安から逃げています。徐栄ほどの指揮能力があれば、胡軫と楊定に不穏な動きがある事や、長安に攻め上る李傕・郭汜軍の勢いが当たるべからずな事は分かりそうなものです。
それでも愚直に出撃したというのは、やはり徐栄には漢の将軍の矜持があり、献帝を放り出して逃げる事は出来なかったのでしょうか?
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三国志ライターkawausoの独り言
徐栄については情報が少なく生涯については分からない部分が多いです。しかし、公孫度と同期の人物とすれば西暦140年代で生まれで、董卓と同年代の人という事になり、皇甫嵩や朱儁のような漢の忠臣の矜持を持った世代の人だったかも知れません。
参考文献:正史三国志
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