徐栄とはどんな人?曹操と孫堅を撃破した漢の忠臣

2021年10月14日


 

 

監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。戦略設計から実行までの知見を得るためにBtoBプラットフォーム会社、SEOコンサルティング会社にてWEBディレクターとして従事。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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見方の裏切りで呆気ない最期を遂げた徐栄

李カク(李傕)、郭汜、王允

 

その後、王允が涼州軍閥の皆殺しを命じたという伝聞が広がると、賈詡(かくに唆された李傕(りかく郭汜(かくし)の10万の大軍が長安へ攻め上ります。これに対し王允は徐栄と涼州軍閥の胡軫(こしん)楊定(ようてい)を迎撃に派遣しますが、涼州軍閥の胡軫・楊定は傲慢な王允の政治に対しすでに嫌気が差していました。

 

李カク(李傕)と郭汜、郭、張済

 

(大体よぉ…李傕や郭汜は俺達と同じ涼州人じゃねえか?

 

あいつらと戦うんじゃ同士討ちで、勝っても笑うのは王允だけだ。

いっそ、あっちについて王允を殺っちまおうぜ)

 

憤死する麋竺(モブ)

 

かくして胡軫と楊定は李傕・郭汜に呼応して寝返り味方の徐栄に襲い掛かりました。こうして軍は大混乱、徐栄はあえなく討死してしまうのです。

 

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李傕・郭汜祭り

 

 

 

献帝の忠臣として敢えて死んだ?

赤兎馬にまたがる呂布

 

英雄記によると、呂布も迎撃に出て郭汜を一騎打ちで馬から落としていますが、戦況不利と見るや、献帝を見捨てて長安から逃げています。徐栄ほどの指揮能力があれば、胡軫と楊定に不穏な動きがある事や、長安に攻め上る李傕・郭汜軍の勢いが当たるべからずな事は分かりそうなものです。

 

それでも愚直に出撃したというのは、やはり徐栄には漢の将軍の矜持(きょうじ)があり、献帝を放り出して逃げる事は出来なかったのでしょうか?

 

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呂布

 

 

 

三国志ライターkawausoの独り言

kawauso 三国志

 

徐栄については情報が少なく生涯については分からない部分が多いです。しかし、公孫度と同期の人物とすれば西暦140年代で生まれで、董卓と同年代の人という事になり、皇甫嵩(こうほすう)朱儁(しゅしゅん)のような漢の忠臣の矜持を持った世代の人だったかも知れません。

 

参考文献:正史三国志

 

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台湾より南、フィリピンよりは北の南の島出身、「はじめての三国志」の創業メンバーで古すぎる株。もう、葉っぱがボロボロなので抜く事は困難。本当は三国志より幕末が好きというのは公然のヒミツ。三国志は正史から入ったので、実は演義を書く方がずっと神経を使う天邪鬼。

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