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張翼の警告を無視する姜維!
同じ蜀の将軍である「張翼」は北伐に反対していました。しかし、姜維は全く聞き入れず、北伐を決行。成果を上げますが、張翼は「追撃すべきでない」と警告。またしても姜維は聞き入れず追撃し、結局大敗してしまいます。
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譙周から警告で孤立
北伐は蜀の国力を疲弊させていきました。文官である譙周は姜維をいさめるため、「仇国論」という書物まで書いて警告をしました。これは数少ない北伐推進派である「陳祗」との討論を基に書かれたものでした。その陳祗も亡くなってしまい、いよいよ姜維は孤立します。
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宮廷とも対立し、結局蜀は滅びる
姜維は宮廷ともあまりうまくいかず、当時権力を握っていた宦官によって将軍の座を追われる可能性がありました。その為、姜維は成都(蜀の首都)に戻ることが出来なくなります。
姜維をかばうものも宮廷にはなく、姜維は剣閣で防衛の任に当たることになります。そこに魏軍が襲来。
姜維は抵抗しますが、最終的に蜀は降伏し、姜維も魏へ降伏することになります。
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似たような性格の鍾会と意気投合するが
魏への降伏後、姜維は「鍾会」と交友を深めます。鍾会も自信満々で己の功績を誇り、大きな野望をもつ人物でした。姜維と鍾会は似たような性格であり、惹かれあうものがあったのかも知れません。
そして姜維は鍾会をそそのかし、魏から独立するように促します。姜維の計画ではのちに鍾会も殺し、軍を乗っ取る計画でした。
しかし、計画は事前にもれ、鍾会と姜維は殺されてしまいます。
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三国志ライターみうらの独り言
これらからわかるように姜維はとにかく「自信満々」な性格だったと考えられますね。自信満々は非難されることではありませんが、仕事を成就させるには周囲の協力が不可欠です。姜維は周りを惹きつけるような性格では無かったようですね。
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