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孫策、非業の死を遂げる
孫策の勢力は着々と広がり、曹操の背後を脅かすようになっていました。孫策は曹操が袁紹を攻めている隙を狙い、曹操の本拠地「許都」を攻め落とす計画をしていた、といいます。
これを知った曹操陣営は大いに動揺しますが、曹操の参謀「郭嘉」は「孫策は多くの者に恨みを買っておるにも関わらず無警戒で、無事ではないだろう。」と予想しました。
孫策は逆らった勢力は容赦なく滅ぼし、呉郡の太守「許貢」を殺害するなど苛烈な処置も辞さなかったことは有名だったのです。
ある日、一人で外出した孫策は、かつて殺した「許貢」配下の刺客に襲われ、重傷を負い、弟の孫権に跡を託しそのまま亡くなります。周瑜は張昭らとともに呉の政策を取り仕切ることになります。
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孫策死後の周瑜、孫権を盛り立てるが若くして散る
周瑜は孫権の非凡さを見抜き、彼を盛り立てることを決意します。家臣の中にはまだ若輩の孫権を侮るものもいましたが、周瑜は率先して臣下の礼をとり、家中を納得させています。
その後は孫権の側近として数々の戦で功績を上げ、曹操が降伏を勧告してきた際には主戦派として曹操と戦う事を断固主張し、結果的に孫権に曹操との決戦を決断させます。
そして「赤壁の戦い」では様々な策を用いて曹操に勝利することに成功します。
そして益州を手に入れ、馬超と曹操を挟撃し天下統一する作戦を考えますが、病に倒れ、36歳の若さで亡くなってしまいます。孫権は後年、皇帝に即位した際は「周瑜がいなかったら今の地位には就けなかっただろう。」と悲しんだといいます。
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三国志ライターみうらの独り言
孫策と周瑜は若くして親交を結び、まさにベストパートナーとして天下に名をとどろかせました。しかし、二人とも若くして亡くなってしまい、天下統一の夢はついえることになります。もし二人が長生きしていたら、どうなっていたか考えるのも面白いかもしれませんね。
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