郭嘉が生きていれば赤壁の敗北は無かった?曹操に信頼された乱世の穎才とは?




はじめての三国志コメント機能バナー115-11_bnr1枠なし

曹操と郭嘉

 

曹操(そうそう)のブレーンとして信頼厚かった「郭嘉(かくか)」は「赤壁(せきへき)の戦い」の前年に亡くなりました。

 

郭嘉が亡くなり悲しむ曹操

 

曹操は赤壁の戦いに敗れた後、「郭奉孝(かくほうこう)(奉孝は字)が生きていればこんな敗北は無かっただろうに。」と嘆いたといいます。曹操にそこまで言わせた郭嘉とはどんな人物だったのでしょうか?

 




袁紹に失望し、曹操に仕官する

郭嘉

 

郭嘉は若いころから先を見通す能力に優れていたといい、各地の実力者と交友を結んでいました。始めは同郷の辛評(しんぴょう)、親戚と思われる郭図(かくと)が仕えていた袁紹(えんしょう)に仕官しようと考えていました。しかし、袁紹の人物に失望し、辛評と郭図に警告したのちに曹操と会見することにしたのです。

 

郭嘉を推薦する荀彧

 

これは曹操の参謀の「荀彧(じゅんいく)」の推薦だったといいます。

 

郭嘉と曹操は意気投合

 

この会見で曹操と郭嘉は天下について語り合うにつれて意気投合、曹操は「この男が私の大願を成就させてくれるだろう。」郭嘉も笑顔になり「やっとわが主君に巡り合えた。」と喜んだといいます。

 

関連記事:曹操の理解者と言える存在、郭嘉が曹操に愛された理由とは?

関連記事:【郭嘉】智謀を備え、曹操の理解者だった天才軍師・郭嘉の生涯

 

覇を競う乱世に新たな秩序を打ち立てた曹操の生涯
曹操孟徳

 




 

呂布との戦いに終止符を打つ

呂布にとどめを刺すよう曹操に献策する郭嘉

 

郭嘉が曹操に仕えたころ、曹操は呂布(りょふ)と長年にわたり激戦を繰り広げていました。なんとか曹操は「下邳城(かひじょう)」に呂布を追い詰めますが、兵の消耗が激しく、曹操は撤退も検討しました。しかし、郭嘉は荀攸と共に城攻めの継続を進言し、ついに曹操は呂布を生け捕り、宿敵を殺すことに成功しました。

 

関連記事:呂布の最期、下邳の戦い。もう一度呂布という武将を見直そう

関連記事:下邳の戦いで夏候惇は目玉を食べていない?猛将のイメージを付け加えた理由

 

【天下無双の豪傑・呂布の放浪記】
呂布

 

 

次なる敵、袁紹を倒すために

郭嘉

 

郭嘉は曹操と初めて会見した際に、袁紹と曹操を比べ10の項目で曹操が勝り、10の項目で袁紹が劣っているという意見を披露しました。その10の項目とは「道・義・治・度・謀・徳・仁・明・文・武」のそれぞれで曹操が勝っている、という意見でした。

 

袁紹に追い詰められる曹操

 

曹操は呂布を破った後は次なる宿敵、袁紹と対峙することになります。袁紹と曹操の決戦は「官渡(かんと)の戦い」でしたが、そこにも郭嘉は従軍しています。そこで曹操陣営では背後を孫策(そんさく)に突かれることを恐れていました。

 

孫策が早死すると予見する郭嘉

 

しかし、郭嘉は「孫策は多くの人から恨みを買っており、無事ではいられないでしょう。」と予言し、実際孫策は暗殺されていました。郭嘉は広い情報網を持っていたことを示すエピソードですね。そして官渡の戦いで曹操は袁紹を破り、勢力を更に伸ばします。

 

関連記事:郭嘉が語った十勝十敗で曹操ご満悦!その巧みさに刮目せよ

関連記事:曹操、宿敵を破る!曹操が「官渡の戦い」で勝利できた理由とは?

 

【三国志の時代の流れを決定付けた重要な戦い】
官渡の戦い特集

 

 

袁家にとどめを刺す!

曹操と袁譚

 

袁紹が失意のうちに亡くなった後、袁紹の息子たち「袁譚(えんたん)」「袁尚(えんしょう)」と曹操は戦い、緒戦は勝つことに成功します。群臣は、これに乗じて一気に袁家と決戦に向かおうと提案します。しかし、郭嘉はそれに反対。一気に決戦に臨めば、袁家が団結してしまい、攻略が困難になる。

 

袁尚と対立する袁譚

 

しかし、時間がたてば、袁譚と袁尚の間に争いが生じ、そこに乗じて簡単に攻め滅ぼせる、と郭嘉は予想したのです。

 

曹操から逃れる袁尚

 

この予想通り、袁家をひとまずおいて置いて曹操が南下の構えを見せると、袁譚、袁尚は争いを繰り広げ、まずは袁譚は滅びます。残った袁尚は曹操に追われ、異民族の地、「鳥丸(うがん)」に逃げ込みます。

 

公孫恭に討たれる袁尚

 

追撃すると、劉備(りゅうび)劉表(りゅうひょう)に背後を突かれる可能性がありましたが、郭嘉は劉表の優柔不断を読んでおり、遠征を進言します。事実、劉表は動かず、曹操は袁家を滅亡させることに成功したのです。

 

関連記事:王修(おうしゅう)とはどんな人?袁譚を最後まで支え続けた忠臣に曹操もリスペクト

関連記事:袁譚(えんたん)ってどんな人?めちゃくちゃ三男と仲が悪かった袁家の長男

 

【古今東西の英雄の「最期」は千差万別】
英雄の死因

 

【次のページに続きます】




次のページへ >

1

2>

関連記事

  1. 郭嘉の素行が悪いとキレる陳羣
  2. 早めに劉備を暗殺しようと曹操に献策する郭嘉
  3. 郭嘉
  4. 郭嘉と曹操は意気投合

コメント

  • コメント (1)

  • トラックバックは利用できません。

    • 月友
    • 2021年 11月 22日

    注釈の郭嘉を疑う。
    ぶっちゃけますと郭嘉の逸話の7割近くが「傅子」からチョイスされたものです。傅子のネタをそっくり削ぎ落としてから郭嘉を見ると真の姿が見えてくるかもしれません

    この傅玄は司馬炎に近い人でした。そのため司馬氏に敵対した諸葛亮なんかを「葛亮」と呼んで蔑み、「葛亮は震えて死んだ」と馬鹿にしたような詩を残してるんですよ。
    ちなみに郭嘉の十の勝因ネタも傅子からのものです。この十の勝因ネタを鵜呑みにすると言う事は「葛亮は震えて死んだ」も正史として肯定しないとならない。

    あと劉陶が司馬氏に楯突いた時も傅玄は父の劉曄を「発狂死した」と悪意を込めて書き綴ってます。
    もぅね色んなところで毒を吐いてる傅玄の話なんかは信用できませんよ。

    何というか普通に傅子は信用出来ない書なのにそれを知らない三国志ファンが鵜呑みにしてるこの現状。
    そろそろ誰が教えてやらないといけないと思いますよ。




はじめての三国志企画集

“はじめての三国志企画特集"

“はじめての三国志倶楽部

“濡須口の戦い

“赤壁の戦い

“公孫瓚

“はじめての三国志公式LINEアカウント"

“光武帝

“三国志データベース"

“三国志人物事典

鍾会の乱

八王の乱

3冊同時発売




PAGE TOP