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三国志演義は過剰?三国志での実際の兵力はどのくらいの人数だったのか?

2021年12月1日


 

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三国志演義_書類

 

小説「三国志演義」を読んでいると、戦いの場面はとても興奮しますが、よく見てみると書かれている兵力がとにかく多いです。

 

赤壁の戦い

 

例えば「赤壁(せきへき)の戦い」では曹操(そうそう)軍は100万人の兵力を動員した、と書かれています。実際にこの大量の兵士を動員するのは可能だったのでしょうか?

 

キングダムと三国志 信と曹操のはてな(疑問)

 

正史「三国志」の記述を見ながら、実際はどのくらいの人数だったのか、今回の記事では探ってみます。

 

 

監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。戦略設計から実行までの知見を得るためにBtoBプラットフォーム会社、SEOコンサルティング会社にてWEBディレクターとして従事。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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「三国志」時代の中国の人口は?

行軍する兵士達a(モブ)

 

中国では古代の時代から税徴収などのために「戸籍制度」が整備されてきました。その戸籍によると後漢時代の西暦140年ころには約5000万人の人口がいました。

 

正史三国志_書類

 

しかしこれが「三国志」の時代(西暦260年から280年くらいのデータ)になると、

魏が約440万人

呉が約230万人

蜀が約94万人

合計約760万人と急減しています。

 

いくら戦乱があったとはいえ減りすぎなので、流人になった、私兵がいる、など恐らく戸籍に載らない人が多数いたと考えられます。

 

関連記事:「後漢の州人口」から読み解く群雄の力!曹操が袁紹の本拠地を欲しがった理由も分かる!

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三国志主要戦図一覧

 

 

 

人口に対してどのくらい兵士として動員できるのか?

行軍する兵士達b(モブ)

 

兵力は人口に対してどのくらい動員できるものなのでしょうか。

 

鶴見中尉のモデルとなった須見新一郎(日本兵士)

 

例えば日清戦争で旧日本軍は人口の5%程度を兵力として動員したそうです。第一次大戦ではフランスが10%以上の動員を行いましたが、国が不安定になったそうです。

 

村人(農民)

 

時代が変わっても国の安定の為、動員には限界がありますから、恐らく三国志の時代でも人口の5%から10%くらいが動員の限界なのではないでしょうか。これを踏まえて正史「三国志」と小説「三国志演義」の兵士数を見てみましょう。

 

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樊城の戦い特集

 

 

「官渡の戦い」での兵力比較

袁紹に追い詰められる曹操

 

官渡(かんと)の戦い」は曹操(そうそう)袁紹(えんしょう)が、中国北部の覇権をかけて激突した「三国志」序盤の名場面です。この戦いにおいて「三国志演義」では袁紹軍は70万以上の大軍を、曹操軍は10万人の兵力を動員したことになっています。これは同時の人口を考えると明らかに過剰で、演義の演出過多でしょう。

 

行軍する兵士達b(モブ)

 

正史「三国志」では袁紹軍10万、曹操軍1〜2万となっており、これが妥当な数字かと思います。いずれにせよ袁紹軍は曹操軍の10倍近くの大軍であり、袁紹を破った曹操の力量は只者ではないことが感じさせますね。

 

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官渡の戦い特集

 

 

膨大な兵力が動いた「赤壁の戦い」

曹操に立ち向かう劉備と孫権

 

「赤壁の戦い」は天下統一を目指す曹操を、孫権(そんけん)劉備(りゅうび)の連合軍が破った天下分け目の大合戦です。小説「三国志演義」でもこの戦いを大いに盛り上げ、なんと曹操軍は100万の大軍で攻め寄せたことになっています。

 

庶民、村人の家

 

これは先述の魏の人口からみてみると40%以上の動員になってしまい、何とも国元が不安です。正史「三国志」では曹操軍は15万から20万となっており、動員兵力は約3%から4%で、おおむね妥当だと考えられます。一方孫権軍は「演義」では明確な数字が示されていませんが10万人くらい、正史では2~3万人くらいの兵力で戦いに臨んだそうです。

 

進軍する兵士c(モブ用)

 

連合軍の劉備軍は正史では1万人くらいの兵力でしたが、当時劉備は客将のような身分だったため、身を寄せていた「劉琦(りゅうき)」の荊州(けいしゅう)兵力が大きかったと考えられます。

 

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赤壁の戦い

 

諸葛亮最終決戦!「五丈原の戦い」

司馬懿と諸葛亮孔明のトランプ勝負

 

五丈原(ごじょうげん)の戦い」は諸葛亮(しょかつりょう)が魏の司馬懿(しばい)との最後の戦いです。「三国志演義」では蜀の兵力はわかりませんが、かなりの大軍で決戦に臨みました。

 

同年小録(書物・書類)

 

「晋書」の「宣帝(司馬懿)紀」によると蜀軍は10万人だそうで、これは蜀の人口の約10%になり、まさにこれはほぼ国の全精力を上げた決戦だったことがうかがわれますね。一方魏軍はその倍程度の兵力だったと考えられ、当時の魏の人口から考えると相当の余裕があるようです。

 

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北伐

 

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みうらひろし

みうらひろし

歴史が好きになったきっかけはテレビの再放送で観た人形劇の三国志でした。そこから歴史、時代小説にはまり現在に至ります。日本史ももちろん好きですよ。推しの小説家は伊東潤さんと北方謙三さん。 好きな歴史人物: 呂蒙、鄧艾、長宗我部盛親 何か一言: 中国で三国志グッツを買おうとしたら「これは日本人しか買わないよ!」と(日本語で)言われたのが思い出です。

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