「夏侯惇」は曹操の挙兵時から付き従い、彼の覇業に大きく貢献した武将として知られていますね。
曹操の下で常に活躍した夏侯惇でしたが、その曹操の息子「曹丕」とはどのような関係だったのでしょうか?
正史「三国志」にはそのことについて記述はわずかですが、想像も交え、考えてみましょう。
この記事の目次
夏侯惇の出自
夏侯惇の実家は漢の高祖「劉邦」の側近で、その事業に貢献した「夏侯嬰」の子孫と言われています。
また、曹操の父「曹嵩
」(のちに宦官の養子)はもともと夏候家の出身で、彼は夏侯惇の父の弟にあたるとも言われています(正史三国志の注より)。と、いう事は曹操と夏侯惇は「いとこ」という事になり、二人は幼いころから親しかったと考えられます。
夏侯惇は気性の激しい人物として有名で、自分の学問の師を侮辱した人を斬り殺してしまうほどだったようです。
関連記事:夏侯嬰(かこうえい)ってどんな人?劉邦を挙兵時代から支えた夏候惇の先祖
関連記事:劉邦はなぜ大粛清を行ったのか?劉邦の粛清を少し考えてみる
曹操の下で数々の功績を上げる
曹操がはじめて挙兵すると、それに付き従い各地で戦いました。
中でも有名なのは「呂布」との戦いで、左目に矢を受けてしまい、以後左目は使えなくなってしまいます。
それ以後、曹操陣営には「夏侯惇」と「夏侯淵」(夏侯惇のはとこ?)という二人がいたので、区別をするために夏侯惇の事を「盲夏候」(盲は目が見えない事)と呼ぶようになったといいます。
ただ、このあだ名を夏侯惇は気に入っておらず、鏡を見るたびに鏡を叩き割っていたといいます。恐らく面と向かって夏侯惇に「盲夏候」!と呼ぶものはいなかったのではないでしょうか(怖いので)。
関連記事:【これが本当の目玉焼き】射抜かれた左目を食べた夏侯惇とは?
関連記事:夏侯惇は本当に自分の目玉を食べたの?
曹丕、実は幼いころから従軍していた
一方、曹操の息子曹丕は初めは後継ぎで長男の「曹昂」がいた為、軍人として期待されていた感じがあります。なんと曹丕は11歳のころから曹操の軍に従軍していたというのです。
このころの曹操は袁紹と敵対し、夏侯惇もそれに従軍していたころですから、曹丕も夏侯惇と一緒に軍務についていた可能性がありますね。忙しい曹操に変わり、夏侯惇が曹丕に戦場の心得を教える、そんなことがあったかもしれませんね。
その後は長男の曹昂が亡くなり、曹丕は後継ぎとして育てられることになったため、戦場から少し離れますが、夏侯惇の武勇は目に焼き付けていたことでしょう。
関連記事:曹操の跡継ぎ争い本命はこっちの三名だった!曹丕の真のライバル曹昂と曹沖の実力はどれほど?
武勇だけではなかった夏侯惇
夏侯惇は「武」のイメージが大変強い武将ですが、実は内政にも力を発揮していました。夏侯惇が地方の太守(知事的な任務)だったころ、任地がイナゴの害と旱魃(雨が降らないこと)に襲われたことがありました。夏侯惇はその対策として灌漑工事を起こしますが、彼は自ら先頭にたって土を担ぎ堤防づくりに精を出し、部下を農民の手伝いに行かせるなど大きな成果を上げています。
関連記事:蝗害とは?中国を悩ました災害があまりにも深刻。バッタを飲み込んだ皇帝も!
関連記事:春秋戦国時代はどうして数年もの籠城が可能だったの?恐怖の人肉食で凌いでいた?
【次のページに続きます】